富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

the 20th Kadoorie Brothers’ Memorial Run

fookpaktsuen2014-12-21

農暦十月三十日。朝九時に大埔墟。タクシーでKadoorie農場。毎年恒例でKadoorie Brothers’ Memorial Runも今年で20回目。昨年は例年になく小雨で濃霧といふ最悪のコンディションだつたが今年は快晴。毎年こんな急な上り坂ばかりのレースは二度と出るものか、と思ひつゝ日記でトレースする限り2003年からは毎年参加。最近はランニングのレースに出場しなくなつたが、これと元旦の長洲島の10Kだけ参加してゐるのは朝が早くないから、かしら。頂上でゴールして毎年のことながら送迎マイクロバスに乗らずZ嬢と里山のなかを歩いて下り山猫に挨拶してミントの鉢植など売店で贖ふ。74Kのバスで太和。大埔消防署の横の野菜市。空き地で始まつた有機野菜の日曜市もすつかり定着して出店の屋台もしっかりした店構へで「大埔農墟」と地図にまで出てゐるほど。大埔中心の店員たちの仕事ぶりがなか/\立派な茶餐庁(咪走鶏焼味至尊小厨)で昼食簡単に済ませ307系統のバスで香港島に還る。このバス、大埔市街のバス停をいくつか廻ると9号幹線に入り大老山隧道から西隧潜り、最初のバス停がいきなり湾仔警署といふ凄いルートである。Z嬢と別れて按摩。晩に帰宅して奶酪とトマトのパスタ。ボルドーのCh. Les Vergnes、所謂千円ワインだが軽めの食事には十分。久々に新聞読みがオンタイムとなる。
▼朝鮮の「キーセン」について日本の券番制度の持ち込みからの歴史を説く河村湊•法政大学教授の指摘が興味深い(週刊金曜日11月14日号)。妓生(キーセン)は本来、朝廷に仕へる官妓(専門職の女官)だが日帝時代に日本の券番制度導入され、芸は売つても身体は売らぬ高嶺の花の芸妓から不見転や枕芸者まで妓生の作法もさま/\。「妓生学校」は昭和10年代の「妓生養成所規定」といふ冊子によれば「本養成所ハ株式会社箕城券番ニ属シ妓生ノ養成ヲ為スヲ目的トス」とあり入学年齢は13〜15歳、修了年限は満3年、歌舞音曲、国語(日本語)など教へ「卒業」すると妓生としての鑑札が受けられたといふ。この生徒募集が警察署長の承認を受け卒業審査も警察官立ち合ひの下に行ふと規定にあるのは民間の学校(らしきもの)でありながら警察が管理や統制行ひ、それは年齢制限や人身売買等取り締まりが体面だが実質「券番」といふ「管理売春のシステムそのものには目を瞑っていた」わけで兵隊相手の慰安所設けられ拉致など暴力的な矯正による連行はまずなかったにせよ甘言、誘惑、欺瞞によつて妓生が慰安婦にさせられたのは券番の抱主(ポジュ)が抱へる妓生や妓生学校の生徒を戦場近くの慰安所に移し替へも少なくなかつたといふ。だが彼女たちの前身が妓生や水商売だつたこと=戦場で慰安婦として過酷な状況に追い込まれたことは直接の関係はない。でも慰安婦が売春の対価として金銭受け取り蓄へもあつたことで問題を矮小化したり軍による直接的な強制連行は証拠がないことで軍の犯罪性をば否定する動きもあるが問題は慰安婦に対する日本軍の関与が「強制売春」に関はる点だ、と河村教授。戦場の慰安所で単純な自由売春があらう筈もなく戦地に駐屯する軍が間接的にであれ(兵士に性病蔓延も致命的なわけで)検黴なども含め統制してゐたわけで強制「連行」はなくても強制的に売春を強いたことは軍の大いなる組織的犯罪と言はざるを得ず、と(河村教授は日本軍について、で述べてゐるが、これはどこの軍でも多かれ少なかれあつた事実であらう:だから肯定もできないのは当然だが)。そうした慰安婦にさせられた女性たちを女子挺身隊と呼び混同したことが、この問題を複雑にし輻輳させてゐるが、この問題も結局は政治的プロパガンダに引導されてゐることが問題だと指摘。御意。