富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

Scud監督の映画 “Voyage”

fookpaktsuen2014-11-03

農暦閏九月十一日。曇。カゴメのトマトジュースが香港のコンビニに並ぶやうになつたのは香港にカルピス登場に次ぐくらゐ嬉しい……が日本製だが、だうも味も舌触りも違ふのは気のせい?と思つてゐたが日経だつたかの記事によれば香港に6月登場で香港の好みに合はせ酸味抑へ野菜らしい食感の「とろっとした口あたり」で売行好調の由。どうも慣れない。早晩に佐敦。「好味」で腸粉立ち食ひ。ジャンキーさではこゝが一番美味い。バーWで独酌ののちミニバスで九龍站。圓方。畏友T君と某ダインで待合せ。Bloody Maryにセロリばかりか茹で蝦まで盛つてくるやうな飲食店は生理的に合はない。T君も出てきた蟹肉系の料理の水っぽさに「出ませう」と出たはいゝが圓方では他に何があるわけでもなく遅れてきたS君と稲庭うどん屋。高っ。稲庭うどんの佐藤養助商店と香港の「稲庭養助」の関係は「業務提携」でよーするにフランチャイズなのかしら。東京で1,200円の「せいろ」←これでもかなり高いが香港では$154は円安で2,250円となる。かうして三人で会つたのは知己のScud監督=雲翔君の映画“Voyage”が9日から圓方の映画館で上映で、そのプレミアム上映に監督の関係から招待状貰つたからだが上映が始まつて最初のシーン、それぢたい短編のやうな扱ひの文革中の内蒙古下放された若者主人公した物語のあと本編のいくつものショートストーリーが「あれ、これは見たやうな記憶」と記憶を辿れば監督の高級マンションにお招きで編集前のラッシュをば一人で見させてもらひ「遠慮しないで感想を聞かせて」と言はれたのが、この日記で辿ると2012年の7月←すつかり忘却の彼方。去年の秋には完成してゐたやうだが香港での上映は今まで遅れたのは監督自身が香港の商業主義的な映画産業に愛想をつかしてゐるからでカナダや欧州、アジアなら台湾のほうがよっぽど上映環境として適してゐる、と考へてゐるから。ふとアムステルダムでの物語でシャワー浴びながらの(文字通り?)濡れ場シーンあつたが登場する男性二人の関係性からセックスが不自然なのでは?なんてコメントしたらアトから監督自身も同じ意見で、そのシーンをカットした、と聞いてゐたので今回それを見て、所謂本格的な濡れ場はこのシーンだだけだつたので「好事家には悪いことをした」と思ふ。この映画のテーマは死、しかも自殺←最近「自死」といふ曖昧な表現があるが「自分を殺す」以外の何ものでもないだろ。話は香港で若い精神科の医師?が自分さがしのやうに「自殺にまつわる話」を書き留める←それも自分の(実は監督の、だが)高級ヨットのなかで、でエピソード的に香港、マラッカ、豪州、欧州での話となる。前述の内蒙古の話も自殺。自殺は世界共通の事象なのであちこちで撮ったと監督の弁。監督は自分を殺すことについて三島由紀夫にかなり傾倒してゐるのもわかるところ。William蠟達智兄が顔本で「雲翔新片上映,探討生死,心機之作!」と褒めてゐるが高尚な話はこちら→蘋果日報の記事「雲翔 拍到想死」にお任せするとして下世話なことを綴つてをくとScud監督の作品といふと大胆な性行為のシーンなど香港でも映倫にひっかかり全5作とも成人指定だが香港では性器が写る程度は問題なし。但し成人映画でも性交シーンで漠然としたベットシーンは許容となるが具体的な性器の接触などは口交、手淫も含め不許可。今日の映画では全裸シーンはかなりあったが問題なしで2つのシーンだけモザイクかかつたのは精神薄弱の若者とその世話をする母親の話で若者を風呂にいれ身体洗つてやつてゐると性欲催した息子が母に手淫強請りいや/\ながら母がそれを扶けるシーンと、自殺した息子の弔ひのときに船から遺骨を海に流すシーンで道教の僧と母二人の小舟に亡霊となつた息子が現れ手淫して見せるシーン。さすがに露骨か、と察するがアタシはラッシュ見てゐるので言へることだが、せいぜい性器それも所謂「半立ち」を手で弄る程度で見てゐて猥褻感もけして強烈でないのは確か、それでも「性器を触る」ことで映倫的にはダメ。つまり実際に見た場合よりモザイクの向かふ想像した場合のほうが猥褻さを感じることになる。ちなみにこの精神薄弱の息子と母親の小話、暗く重い話だが息子の唯一の趣味がMark Sixの宝くじで、いつも当たらないが息子の死後、悲しみに暮れる母親が場外馬券場にクッキーの缶いっぱいの外れ券持参してカウンターの不愉快さうな職員に全部確認させると←このシーンでカウンターの内に全裸の息子の亡霊現れ職員←亡霊が見えない、の頭を小突き作業させるのだが、その外れ券のなかに800万円ほどの当たり券があつた、といふ幸運。馬券売り場を出た母が陋巷では誰にも見えない全裸の息子と並んで歩いて家路につく、なか/\よく出来た話。Mark Sixは一等はいつも何千万円、ジャックポットで億になることもあるが800万円「程度」といふのが、この母親にとつての息子から授けられたおカネといふことで「いかにも」が亦た好いところ。