富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

孽子

fookpaktsuen2014-10-29

農暦閏九月初六。未明に咳で目覚め咳歇まず四苦八苦。さすがに今日は降参で自宅に籠る。それでもメールで仕事出来る、といふか「しなければいけない」ご時世。昼におぢや、晩は水炊きで鳥スープといふ滋養メニュー。やっとのことで白先勇『孽子』のテレビドラマ第13〜20話(完結)まで見る。1970年代の台北で(今の「健全な」二二八和平公園からは想像もできないが)新公園に夜な/\鳩まるゲイ……なんて言葉は当時なかつたが男色者たちの群像、といつても登場する若者たちが主人公の阿青に限らず四、五人の友人たち誰もが「父親への愛情」が叶わず苦悩する息子たちで(まさに白先勇の半生そのものなのだが)ある人がこの物語と「エデンの東」を同じ視点で語つてゐて「なるほど」と思つたが、だが個人的にはあまりにも若者たちが皆、父親の愛に飢へてゐて、周囲には父代はりの優しい伯父さまたちがゐて「あんまり」すぎて続けて見てゐると一寸食傷ぎみな感じもあり。原作ではそこまで稲荷鮨の折詰状態ではない。周囲の小玉、老鼠、阿鳳、小敏といつた同志たちの個性が鮮烈すぎて主人公の阿青が霞みさう、その不安定さもまた微妙に物語を面白くしてゐるのは、このテレビドラマの演出の上手さ。
▼行政長官CY梁*1民主化運動混乱の責任とり辞任すべき、と主張してゐた自由党の田少=田北俊党首(立法会議員)が中国の政協で委員資格抹消される。この方は自由党が香港の財界背景に親中派とされるが2003年にも基本法23条立法での50万人デモに行政会議員辞職して抵抗を見せた前歴もあり。中共一党独裁国家で御用組織の政協だつて民主集中制で反対など許されぬと思へば、この更迭は驚くことでもないかしら。誰だか中共系の有力者が「行政長官支持で批判は問題ないが辞任要求はダメ」とかワケのわからんこと言つてゐた。いずれにせよ田少がこの発言と中共からの罰で「男を上げた」のは事実。田少の昨晩の記者会見での台詞が振るつてゐて、あの発言をしたとき「ずっと香港にゐるもので立法会議員と自由党党首の自分が、政協の委員であることをうっかり忘れてゐた」と(笑)。
昭和天皇実録キリスト教への関心について朝日新聞原武史先生が書いてゐるのが、もはや学研『ムー』みたいで面白い。昭和20年の7月末から8月初にかけ天皇宇佐神宮(大分)、香椎宮(福岡)などに勅使遣り「由々しき戦局を御奉告になり敵国の撃破と神州の禍患の祓徐を祈念」(実録より)したが、その1週間後に長崎に原爆落ち「天皇はそれを運命的なものに感じ後悔もしていたのではないか」で「退位を封じられた天皇カトリックへの改宗すら考えていたと思う」と原先生。そんなこと言ったら国家神道がっ!……だが昭和天皇は「戦勝を祈った神道を捨て去ることで深い反省の念を示して自らの戦争責任に決着をつけ、同時にローマの法王庁に中心を持つカトリックに身を委ねることを通して、占領軍である米国とも一線を画そうとしていたのではないだろうか」と、そんな策略家としての一面が先帝になかったか、といへば強ち否定できまひ。

Nieh-Tzu (げっし)  新しい台湾の文学

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*1:行政長官CY梁が香港の民主化運動に外国勢力の介入あり、と宣つたことに先週25日の信報で游清源が「梁振英だつて外国勢力の影響あり」と揶揄してゐるのが面白い。「此人之父來自當年英帝租借地山東威海衛,來港後服侍英殖港督。此人名曰「振英」,即「振興英帝」,其基因已經可誅,而他也曾就讀紀念英王佐治五世登基二十五周年的英皇書院,其後又去英帝專門訓練特工(即是「特別技工」)的布理斯托理工浸鹹水,回港後更往英帝量地公司做量地官,繼而到英帝老牌量地大行繼續做量地官,直至執笠前才被英帝安插去做特首。」つまり梁振英の父親は山東省の英国租借地威海衛の出で香港に移民してから総督府に仕へCY梁の名(振英)は正に「振興英帝」で中学はジョージ五世の治世25周年記念し創設されたKing’s Collegeに学び英国に学び香港に戻つて英国系の土地測量会社で成り上がり……とまさに英国あつてのCY梁、と。