富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

正一位蛙大明神

fookpaktsuen2014-09-09

農暦八月十六日。中秋翌日で休日。午前中にハーバー沿ひ小一時間走る。昨晩の月見のゴミはかなり片づけられてゐるが沿岸の公園がやたらと麦酒臭い。長年使つてゐたランニング用のサングラス先日壊れ再購入と思つたらほしいレベルのは1万円以上するのに驚き帽子の鍔で日差し眩しくなけりゃいゝや、と一昨日マカオスポーツ用品店で購入のアシックスのランニング用の帽子といふのが使用前に水を含ませると多少涼しく頭からの汗も減り予想以上に快適。晝に冷や麦を茹でて食し午後はラウンジチェアで昼寝&読書は最近の休日のパターン。昭和天皇実録の内容公表で朝日、毎日、東京の三紙に詳しい特集記事あり、それを読む。早晩にZ嬢と北角。南亜食品扱ふ見世の愛嬌よき猫と遊んでから梅花村小館といふかなり繁盛の潮州料理屋に飰す。鹵水の拼盤(盛合せ)と密餞梅花骨といふ桃の缶詰め大胆に使つたスペアリブ揚げ←これが意表を突く美味。食後に北角の波止場まで往くと十六夜の見事な月がブレーマーの山に上つてきてゐる(今晩が満月らしい)。コンビニでウオツカ飲料購ひ即席の月見。月とスミノフ。一葉の全集で『にごりえ』再読。畏友久が原のT君のといふところに八月十六日は源氏で夕顔の女君の亡くなつた日、ということで地歌「夕顔」をYoutubeで聴く(T君は三弦か箏で夕顔を「弾く」なのだが)。
昭和天皇実録。さきの大戦では戦局厳しくなつてからは終戦を願つたといふ昭和天皇終戦間際の七月から八月に九州の宇佐神宮香椎宮に勅使遣り敵国撃破祈願してゐたり戦後の基督教への関心など興味深いネタもあり。微笑ましいのは学習院の授業でカエル解剖(明治34年)で、そのカエル解剖のあと御帰殿後もトノサマガエル再度解剖、諸器官一々御観察、終はつてカエルを箱に収め、雍仁親王・宣仁親王と御一緒に南庭に埋めて「正一位蛙大明神」の称号を賜ふ……叙位とはさすが(笑)。昭和天皇8歳のときの両親宛の手紙も「おもうさま」「おたゝさま」といつた宮中ならではの言葉ばかりか表現も興味深し。学校の授業が「しまふ」ばかりか昼餉も「しまふ」。外遊びで往く「せこ」は谷の迫(さこ)か、鳥に餌(ゑ)をやり、両親からの文房具やおまな(真魚)いたゞいた際に「きのふはおつかひで……」と「おつかひ」は庶民には自分が何か買ひに行かせられることだが天子様だから下僕らが何かしてくれること。
▼『明治の表象空間』松浦寿輝(新潮社)といふ書籍、毎日新聞だつたか三浦雅士の書評(七日)読み面白そう。「表象」が人間の意識の所産であるながら、まるで社会に於いて自立的に振る舞ふやうなイメージのやうなもの、で<明治>を読む。博物学の変容が小石川植物園で、は解るが同じ変容が大槻文彦『言界』にも見られる、とか一葉の『にごりえ』の主人公、酩酊やのお力の独白が教育勅語の文体と表裏をなしてゐるとか……わからない。明治の言語の表象空間論じてゐるやうで一葉や教育勅語が明治のそれを超越して「書くことの根源的な問題を提示」してゐて、明治の言語としての一葉や露伴の延長上に内田百輭吉田健一の存在があるといはれても百鬼園や健一に「歴史は充実した現在の所産にほかならない」なんてやゝこしいことや「人は此岸にあつて彼岸を生きてゐるのだ」なんて問答もあまり要らない気がするのだが。百鬼園も健一も好きに列車に乗つて好きに何処かに往き飲んで食べて帰つてくる……と確かに、それが時間や歴史など超えた「勝手」なのは間違ひないのだが。で一葉『にごりえ』も何度目かの再読で一葉の一連の作品の中ではもと/\あまり好きぢゃない、昔のレコ忘れられず、男の方も男の方で貧しも健気な女房との気質の暮らしに飽き足りずで情死といふ筋に、お力の独白にアタシはだうしても教育勅語の言説の裏までは感じられず。強いていへばたかが酩酊屋の淫売とはいへ明治の時代にお力の姿勢に近代の「頑張りませう」精神が感じられウェーバー的に教育勅語の精神と似たところは感じもするが。……アタシが頭が悪いのか感性に乏しいのか。
誤報といへばすっかり朝日新聞お家芸のやうだが都新聞夕刊で加藤典洋氏が都新聞文芸欄の名物連載「大波小波」に反論掲載あり。同欄で八月十六日に「特攻体験と戦後69年」と題して島尾敏雄吉田満の対談『新編 特攻体験と戦後』(中公文庫)について書いてゐるのだが、そこで同書の加藤典洋による解説を誤解して非難だといふ。大波小波(匿名子)は加藤がその解説のなかで百田尚樹の『永遠の0』を読み「反戦的な、感動的な物語であると思った」と書いたこと等から加藤を「胡散臭い」としたといふ。問題となつたのは加藤の解説のうち

私は『永遠の0』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語だと思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であることと両立する。何の不思議もない。いまではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の『感動』をそのように操作されうるものと受け止める審美的リテラシーが新しい思想の流儀として求められているのである。

で、だう読んでも加藤典洋が百田を認めてなどゐないのだが大波小波はこれをだうしたことか加藤が百田のこの両義性肯定で、その上、加藤まで非難されるといふオマケつき誤読。とんでもない話だが、やはり文芸界まで脳内軟化がかなり進んでゐるのかしら。それにしても加藤典洋が冷静な上に「またしても加藤は極右思想に鞍替えしたかなどと世評が一部で高まる気配」と自虐的に揶揄した上で「解説だからと、軽く見られては困ります」とウィットでクレームをまとめたのがお見事。

にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)

にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)