富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

釜石、大槌

fookpaktsuen2014-08-10

農暦七月十五日。孟蘭盆会。台風11号が四国に上陸。西日本では天気荒れるが東京は朝、少し雨が降つただけ。麻布旅寓からタクシーで東京駅。お盆の帰省ラッシュで混雑。新幹線網の東京集中が凄い。08:48発のやまびこ48号で一路、花巻。仙台あたりだけ雨。新花巻駅でアタシは駅そば、でZ嬢は賢治弁当(単なる幕の内)購ふ。釜石線の快速はまゆり3号に乗車。帰省ラッシュだが指定席確保。立ち席は自由席車両のみ、と言はれるときちんと守るから立派といふか何といふか。ディーゼル列車が山間を縫つて走る。モーターの加速音がいゝ。遠野でかなりの観光客下りて立ち席は解消。遠野駅ホームにC52機関車が威勢よく煙上げてゐる。SL銀河の、賢治が見たら驚いて照れるであらう銀河鉄道の豪華な車両たち。もう少しで海に出るとは思へぬ山間を縫つて走る列車。三十数年ぶりの釜石。釜石在住の畏友Pちゃんが車で迎へてくれる。釜石市内はいくつか津波被害被つた姿のまゝ遺る建物除けば、日本の地方都市でバブルでの地上げや不況で商店が店を畳んで整地された、どこにでもある商店街のやうに復興進んではゐる。だが海沿ひ車を走らせ一つ山向かふの鵜住居(うずまゐ)に行くと様相は一変。根こそぎ津波に流され何もない。釜石は「釜石の軌跡」と呼ばれる「津波てんでんこ」の教育で鵜住居の学校の子どもたちが学校から山の中腹の国道45号線のバイパスまで学校の指示を待つまでもなく逃げたといふ。その45号線から車で下りてきても学校まではかなりの距離で、その坂を逆にあの地震のあと津波が来るぞ、の恐怖のなか逃げられたといふのだから。鵜住居では小中学校は子どもたちは逃げ延びたが町中にあつた鵜住居地区防災センターは「釜石の悲劇」と呼ばれる人災が起きたのは明らかに行政事故(こちらに詳しい)。同センターは「拠点避難所」で、これは「避難者が避難生活をする拠点」であつて市の防災計画では津波が予想される場合は高台などの一次避難所へ逃れ、それからセンターに戻るはずであつたといふ。Pちゃんの話では地区が欲しかつたのは公民館であつたが「防災センター」とすることで政府の国土交通省?だかの予算がとれるので、この名称となり、いつの間にか何かあれば避難所のやうに認識されてゐたといふ。そこが津波で教われれば海に近い町中にあるセンターは津波に吞まれることになる(64人死亡)。学校を高台に移設する計画で、高台への住宅地建設山を削つて出た大量の土砂を津波に流された町内に盛土。5mほどの盛土は津波に流さるだけなのに。ホームへの地下道だけ遺る鵜住居の駅。長いトンネルを抜け大槌町へ。消えてしまつた町内。仮設の商店街。仮設住宅。コンビニはローソンの一人勝ち。どの集落も町は流れても墓地だけが目立つのは寺が少し小高い位置にあるから。人が亡くなり墓が残る。再開した漁業。漁港。雨のなか昨晩の港でのロックコンサートの片付け。蓬莱島=ひょっこりひょうたん島。沖合に浮かぶ島かと思へば東大の海洋研究所(跡)から長い堤防の先から引き潮なら渡れるとは。トンネル潜り吉里吉里へ。今晩の宿はPちゃん手配してくれたホワイトベースオオツチ。大槌地区の復興工事やボランディアの長期滞在用に建造された宿泊施設でプレハブと聞いてゐたが設備の立派さに驚くばかり。下手なビジネスホテルのシングルルームよか充分な広さで一人一部屋。Pちゃんも泊まつてくれる。大浴場で湯につかる。Pちゃんの奥様来て車で大槌町内の「岩戸」といふ割烹料理屋。上品な味付けで地元の魚、野菜供す。車で宿泊施設まで送つてもらふ。台風で風は強いが吉里吉里の浜に向いた部屋は窓開けても風が吹き込まず時折静かに聞こえる波音に抱かれるやうに眠る。
▼晋三の長崎での平和記念式典挨拶、広島では挨拶冒頭の文章が昨年とほぼ同じでコピペ晋三と嗤はれたが長崎では文章のほゞ半分が同じで杜撰晋三と呆れられる。これに対して長崎での被爆者代表の女性による「平和への誓い」が絶賛される。(被曝三世である孫の死や福島で小児甲状腺がん宣言された親子への言及は原爆症放射能被害の確実な判定はどこまでが、と疑問の声もあらうが)晋三の集団的自衛権を「憲法を踏みにじる暴挙」と言及は原稿になかつたさうで「憲法を蔑ろにする政治家たちを見て怒りがこみあげてきた」とこの女性。