富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

釜石から志津川へ

fookpaktsuen2014-08-11

農暦七月十六日。台風は日本海へ。大槌は涼しく風が山から海に向かひ吉里吉里の海岸に面した客室は昨晩もまど開けたまゝで心地良し。遠くから波の音。穏やかな海だが、あの津波も此処から。熟睡。夜明け。朝`六時に公民館のスピーカーから「われは海の子」流れる。六時半に宿舎の朝食が始まるが定刻で行くと、早朝から現場へ行く作業員らがすでに朝食済ませてゐる。西洋人の宿泊者も数人。盆も正月もない復興事業。Pちゃんの車で○○道路抜け釜石市街へ。将来的には仙台までつながる三陸の高速道路は、この区間は震災の数日前に開業で津波のあとは孤立した鵜住居地区の生命線になつた、といふ。釜石駅の瀟洒三陸鉄道の待合室。精密な鉄道ジオラマあり。08:16に到着の南リアス線の列車の折り返しで、すぐに乗車していゝですよ、と運転手。08:46に発車の南リアス線の1両列車。お盆で「あまちゃん」の人気もあり観光客で賑はうか、と思つたが乗客は15人のみ。釜石を出ると新日鉄釜石釜石港を眺め次の駅、平田までの長い/\トンネル。岬の上から大洋を見渡す漁り火観音。長いトンネルで唐丹。狭い平地は何もなくなり草が生い茂る。長いトンネルを抜けると吉浜。吉浜から盛までは国鉄の旧・盛線。釜石〜吉浜のこのトンネルばかりの区間は、鉄道通すとなるとコストも膨大で自動車社会となり、鉄道が生活の大動脈ではないので吉浜〜釜石を開通させなくても、といふ声もあり当時の国鉄も建設に二の足を踏んだところ。実際に一両編成で日に9往復しかない需要なら、と思ひもするが鉄道が通つてゐることの安定感は誰もが感じるところ。吉浜駅での列車待合せで入つてきた下り列車は運行再開記念の水戸岡デザインの特別豪華車両。トンネルを抜け駅に着くたびに海に面した集落は平地に草生い茂り沿岸は防波堤の工事現場。14.5mだかの防波堤を築くといふが311の津波は更に高く町内からは海が見えないことで景観ばかりか海沿ひといふ意識すら薄まる。そんなもの不要、無駄と思ふ輩は少なくないが311の津波のあと罹災者の捜索や仮設の準備も整はぬ内に既に防波堤の建設計画が決まつてゐた事実。土建政治宮城県南三陸町から青森の八戸までの路線について備忘録的にまとめておくと(八戸から南に語ると)八戸から久慈までが久慈線。久慈から宮古が「あまちゃん」の三陸鉄道北リアス線)となつてゐるが北リアス線の久慈から普代までは旧久慈線で田老から宮古までは旧宮古線で普代〜田老間が旧国鉄時代も未開通のまゝでアタシも昔、ここを岬めぐりのバスの旅。宮古から釜石が運休中の山田線。釜石から盛(さかり)までが三陸鉄道南リアス線だが途中の吉浜から盛は国鉄時代に盛線として開通してをり釜石〜吉浜間のトンネル続く要所が第三セクターとしての開通。盛からの気仙沼線がかなりの区間津波で線路流され運休中でBRTのバス運行中……で盛に到着すると連絡のBRTバスが線路をアスファルトで固めた専用道路で待機中。此処でZちゃんが迎へてくれる。彼女は三陸町(合併で大船渡市)の越喜来は泊地区在住でアタシらが南リアス線三陸駅で下車すれば便利だつたのに鉄ちゃんとしてはやはり南リアス線を全線乗車したく無理を言つた次第。Zちゃんの車で三陸町の越喜来へ。ここの小学校も一時避難場所は校庭だつたが、津波なので校舎から裏の土手に避難用の橋があり子どもたちはそれを渡り高台に避難。もし校庭になど集合してゐたら時間のロスで助からなかつたことになる。学校のそばの土地に、その学校の避難用の鉄橋や瓦礫の廃材を集めて地元の某氏の造つた「基地」がある。学校の津波の時間に時のとまつた時計。ベンチ。大黒柱。門柱。此処も高台に学校移設で山肌が削られ、その土が元々の集落の場所で盛土されてゆく。越喜来にある五つの集落のうち一つだけ少し南に離れた泊地区へ。此処がZちゃんの故郷。近所も根こそぎ家を津波に流された。今朝乗つてゐた三陸鉄道からの光景で一番、津波にざっくりとやられたな、と思はされた、其処がZちゃんの家のある集落だつたとは。Zちゃんは津波のときは早めに津波に気づき泊では珍しく海岸近くを堤防のやうに走る三陸鉄道の線路に上がつたが其処でも危ないと線路走り鉄道トンネルの入り口で作業用の梯子上り高台に上がり九死に一生を得た由。津波よりもその引き潮の強引さ。高台に新しく建ててゐるZちゃんの家は先日、上棟式終り初秋には出来上がるといふ。Zちゃんが泊の地区役員をしてゐて尽力し、東海大学の先生や学生たちの協力もあり出来上がつた新しい公民館も見せてもらふ。部分/\完成した三陸自動車道で大船渡を抜け陸前高田へ。本当に何もない。言葉も出ない。三陸では昔から開けた、平坦の土地の多い陸前高田は被害も大きく復興には一番時間も要するだらう。この町の一番の救いは昨日からずっと見てきた防波堤工事のなかで陸前高田伊東豊雄らのコミットで海と町を遮断する単なるコンクリートの防波堤ではなく、その土地に暮らす人々が生活の一部として防波堤の高台に上がるやうに平時は公園や広場のやうなスペースとなり海を眺めることも、そして町を眺め自分の家がどこで、どの方向に高台があるのか、丘があるのかを見渡せるやうにしたい……と、この話は伊東先生が一昨年、香港で話されてゐたのを拝聴したが、さういふ方向性で動いてゐること。少し高台にある「みんなの家」(こちら)を見ることも出来た。自動車は気仙沼に入る。昨日からローソンばかりだつたのに初めてセブンイレブンを見て「宮城県だ」と思ふ。麺来←「めんこい」と読む、で遅めの昼食に湯麺飰す。これでもか、といふほどにズタ/\に切断された気仙沼線の線路。あれほど海景の風光明媚な路線だつたのに。気仙沼線は方向的には仙台の方を向いてゐるが前谷地で石巻線にぶつかり、その石巻線は(よく仙石線と混同されるが別で)小牛田で東北本線に出るので仙台は遠い。311までは仙台からこのルートで走つてゐたのが快速「南三陸」だが、気仙沼以北からなら大船渡線で一関に出て新幹線のほうが利便性が良い。魚津もすつかり様相を変へる。大谷海岸も跡形もなし。志津川。今は南三陸町←岩手の三陸町とよく混同される。ホテル観洋に投宿。311の津波の際に崖の上に建つ、このホテルは職員の撮つた映像が何度もテレビで紹介されてゐるが低層階こそ津波にやられたものの客室に何百人といふ罹災者を収容したたことで有名に。先月は南三陸行幸の両陛下も宿泊。今回は釜石から南下したアタシらと仙台からのご一行、旧「阿Q」のT君と元ローディH君とM君で、ちょうど中間といふことで志津川を選び、このホテルとなつたが「志津川ハトヤ」は客の多いこと、多いこと。職員の接客の良さは特筆に値する。創価大学の学生がインターシップでお仕事中(こちら)。今晩は旧友たちと十年、廿年ぶりの再会で旧交を温め深更まで酒を飲み款語尽きず。