富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

大マゼール逝く

fookpaktsuen2014-07-14

農暦六月十八日。酷暑。昨晩はタイ料理で緑カレー。今晩は陋宅で印度風ポークカレー。台湾マンゴー頬張る。美味。文藝春秋八月号読む。特ダネが川端康成の恋文(とほほ……)で他に並ぶ記事も「中国はなぜ平気で噓をつくのか」「習近平 見えてきた独裁者の正体」「20xx年、米中もし激突すれば」なんてどーでもいゝが、いつも読み飛ばす塩野七生の連載も「ある出版人の死」粕谷一希を読む。そしてタイトルだけ見ると「若い世代に勝ち続ける思考法」って何だかPHPとかダイヤモンド社っぽいが羽生善治のインタビューが面白い。記憶力について。記憶力のピークは二十代前半だが「経験とともに覚へることにこだわらなくていゝと思へるやうになる」。画期的な新戦法や作戦が出てくると、それに対応しない過去5年のデータはもう覚へてゐる必要はない、といふことになり「むしろ忘れてしまったほうがいい」「覚へることは大変なんですが忘れる力は年齢が上がるとどん/\伸びていつてくれます」と老人力に言及。

(指し手を)読む力ぢたいは年齢が上がつても変はりません。たゞ思考の中で二十代は八割を読みに費やしてゐたのを五割六割にして、あとは感覚的な判断や方向性をとらへるやうになりました。若いころは葉の部分、ミクロの細かい部分を詰めて、それから枝へ幹へ思考が移行していくことが多かつたのに対し、マクロ的に局面全体をとらへてから読みといふミクロのところで確認するやうに順番が変はりました。経験を積んで自分で向上したと思ふのは、見切るといふことに関してでせうか。局面を見渡して、これなら大丈夫とか、この筋は駄目だとか、この手は可能性があるかとか。(略)全ての局面でゆっくり考へてゐる時間はありません。こゝが勝負どころとか、課題になつてゐるといふ場面をとらへられるかどうかが、まづ最初の大事な判断になるわけです。その上で、(長く)考へる価値があると判断するときもあるし、或は難しすぎて判断も考へも出来ないから、考へないで、取りあへず手を決めて局面を進めようと判断することもある。しつかり考へる局面か、パッと判断するべき局面か、実戦では初めて見る局面で判断するわけです。

……と。ありがちな経験論のやうでゐて、さすが棋道極めた方の談。
公明党がなぜ「平和の党」の看板傾けてまで自民党に日和るのか、を赤坂太郎は自民党ラスプーチン飯島勲の「公明党創価学会の関係は政教一致と騒がれてきたが内閣法制局の発言*1を担保に、その積み重ねで政教分離ということになっている」から、もし内閣法制局が解釈を変へれば……といふ点をちらつかせ集団的自衛権について公明党の譲歩を求めた、としてゐる(文藝春秋八月号)。ふーん、とも思ふが内閣法制局がこの見解を変へることはあり得ず、公明党も今更、創価学会の党といふことで政教一致云々がそれほど深刻か。どうも「もっとシビアな何か」が自民党公明党の間にあるやうに思へてならず。
▼朝日の訃報記事「竹本源大夫さん引退へ 文楽大夫の人間国宝、不在に」って(こちら)「なに、これ?」と思つたが畏友・久が原T君が早速、呟板に「朝日新聞の記事は「人間国宝空席」をさも大事件の如く書くがそれは俗論・謬見の最たるもの。技能優秀の適任者がいなければ「空席」は当然」と。T君からの引用でもう一つ。普段は全く読まぬ類ひの「食べログ」で旧来の蕎麦屋で「オシボリが出ない」「茶でなく水が出た」と御託並べて評価を高下する者あり、食ひ物店で食前にオシボリを出すのは定法に非ず、蕎麦屋で茶を求めるのは甚だ場違ひ、と。御意。ふと思つたが飲食店でおしぼり出すのはどこが始まりなんざんしょ。水商売から?寿司屋で握りをつまむのに、おしぼり、というか、もっと小さな、上品な店だとタオル地でなく木綿を濡らして小さな竹筒みたいのに入れて出されるお手拭きは重宝するが、店に入るなり「いや〜っ」と顔を拭うのもみっともない。お茶も、そも/\お茶の嗜好性を考へれば食事のときに飲むものぢゃない気が。茶道で茶会席も食事してお茶を一服。店に入つて暑気払ひに一杯なら、水のほうが真っ当かも。香港(中国)でも麺屋は茶水は供せず。一杯飯屋は茶水は出さないのか、汁物扱ふなら、さうなのか。香港の雲呑麺屋でも茶をもらふのは野暮。飲茶は茶室でどうぞ。
▼指揮者のロリン=マゼール師逝去。享年八十四。2008年に紐育フィルでブラームス4番。このツアーが平壌行きのもの。2012年にフィルハーモニア管弦楽団マーラー1番、アンコールはニュルジン前奏曲。大マゼール拝むのはこれが最後か、と思つたが昨年11月に香港フィルでワーグナーの「言葉のない指環」。香港で今世紀に計3回の大マゼール。ちなみにマゼールの香港デビューは1978年のクリーヴランドで1982年にEast Coast Orchestra(知らない……)で再来港、1991年にピッツバーグ交響楽団ワーグナーの「言葉のない指環」演り2002年に紐育フィルがあつた由。
“Curiously, for someone who has a fairly good reputation for stick technique,” he told a reporter for The Times in 2002, “I don’t recognize stick technique per se. I don’t think I ever make the same motion twice in the same bar of music. The aim is to find a motion that responds to the need of a particular player at a particular moment. The player must be put at ease, so that he knows where he is and what is expected, and is free to concentrate on beauty of tone. There is no magic involved.” NY Times 13 July 2013 Obituary by Allan Kozinn

*1:憲法政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国およびその機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与することを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動をすることをも排除している趣旨ではない。- 自社さ連立政権における内閣法制局長官大森政輔の国会答弁趣旨