富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

Neymar Neles!

fookpaktsuen2014-06-13

農暦五月十六日。散髪済ませ晩に尖沙咀。深圳S氏から招飲受け日本料理の「吉」とのこと、Chatham Rdの「吉」は銀座太郎*1が潰れで居抜きで開業したのは香港返還の前だつたか後だつたか、なんて考へながら歩いてゐたら「吉」がない、慌てゝアプリで探すと場所はCameron Rdで尖沙咀MTRのB出口からすぐ、つまり「吉」のあるビルの前を通り過ぎて此処まで来てしまつた上にCameron Rdに「吉」移つてから誰だつたか、に誘はれ一度食してゐたこと思ひ出して自分に腹がたつ。S氏のパターンで銅鑼湾までタクシーで渡り何年ぶりかしら、のフィリピン卡拉OKのAに往く。ママもチーママも香港長く「あら、久しぶり!」とあれこれ共通の知人のことなど四方山話。ホステスのゐるカラオケなんてアジア人、銅鑼湾では殊に日本人の独壇場のやうだが今晩、目から鱗は西洋人五、六人がホステスと大騒ぎ。こんな文化が彼らに浸透してゐたとは。警察の手入れあり正規の就労査証なきホステスは裏口から退避で五分後くらゐに何事もなかつたか、のやうに復帰。睡魔に襲はれ皆さん歌唱のなか寝てゐて深夜二時に至る。皆さんお歌が上手、あたしはからきっしダメ。

*1:銀座太郎【ぎんざたろう】かつて「香港日本料理界のボトムエンド」と名を馳せた尖沙咀Mody Rd のちにバブル展開して Chatam Rd に進出して90年代末のバブル崩壊とともに消え去った日本料理屋。Mody Rd 時代は「あんな店、恥ずかしくて行けない」と日本人駐在員には敬遠されたが、貧乏な日本人現地採用の若者や留学生にはこよなく愛された。ただ Mody Rd に張りだしたアーケード上部が座敷になっていたが、ここが傾いており、いつ崩れても不思議でなく、テーブルに置いたコップ酒が水平移動していた。何も美味いモノもなかったが、酔うと「中国の前途は教育問題の未解決にある!」が持論、日本の江戸時代からの寺子屋と明治の教育改革を絶賛する海南島出身、海口のライシャワーと異名をもつオーナーM氏、それに日本人雇われフロアマネージャーのかなり濃いキャラで、人気があった。バイト数名欲しかったM氏、日本での生活経験が長く「バイトは大学生」と香港中文大学の日本研究学科に乗り込み「居酒屋で働くバイト」を募り、香港のプライド高き学生が居酒屋の給仕などしないことをM氏が知りもしなかったのも懐かしい話。ロンドンに支店をオープン、Chatam Rd に進出、2フロア借り切り小上りどころか個室の座敷まで設けたのはよかったが、運悪く香港バブルが崩壊、客足がにぶり倒産。