富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

改憲は歴史的使命、と晋三

fookpaktsuen2013-08-13

陰暦七月初七。七夕。朝まだ目がきちんと覚めぬまゝ畏友村上湛君のブログで湛君もご覧になつた海老蔵のABKAIの寸評読む(こちら)。もし、この「花咲か爺」が大人向けでなく、こども向けに良くできた『おしばい』として作られていたら、どうだろう、「工夫によっては別の新たな可能性が確かに開ける気がする」と、確かに。海老蔵が自主公演をさうした将来の「芝居好き」になり得る子供たちのため門戸を開く企画として立ち上げたならば「むかしばなし」という切り口は、その時あんがい子供たちにとって恰好の「おしばい」の入り口になるかもしれない。……と湛君の指摘は魅力的。そして今回のこの芝居については「主題のなさ」に言及。昔話、童話など「こども向け」なればこそ明確な主題が戯曲全体を貫いていなければ小児の心はつかめない、として寺山の劇団四季演じる〈はだかの王様〉や〈王様の耳はロバの耳〉、それにミュージカル〈ウィキッド〉の鋭い劇性=ここでは批評精神、が横溢しているか、で「真に「こども向け」だからこそ、大人にも通用する作品でなくてはならない」と。多少長くなるが大切な指摘をそのまゝ引用せば(原文の改行省略)

冒頭、桜の花ざかりに浮かれている村人たちを突然の水害が襲い、村は壊滅。色彩の美というものが失せて、人々は物欲に生きる存在と化す。ここで悪人の徳松爺だけでなく善人の正造爺すら動物たちと一時対立するのがちょっと〈ウィキッド〉オズ帝国の人獣雑居の平和の崩壊を思わせるが、その水害の原因は人々が農業の利潤を上げるため河川改修を強行したためではなかったか。なのに、その問題は劇中うち捨てられ、「はじめからなかったこと」のように解決されない。
忠犬・シロの犠牲死によって屍灰が桜の花を咲かせ、人々が再び浮かれる結末。「ただ踊れ、ただ歌え」と狂躁のうちに幕となる。これは「家族で仲良くまた花見ができてハッピーエンド」なのだろうか?悪人・徳松爺が毒虫の祟りで死ぬのは因果応報、人間の両親に命を捧げたはシロはあの世で浮かばれるかもしれないが、自然を破壊し物欲に生きるようになった人間たちの根本問題は、何の解決もなされていないではないか。この「砂を噛むような結末」が、〈ウィキッド〉的に場面の美しさと高揚の中に塗り籠められた「毒」=したたかな批評精神として強烈に潜在しているならぱ、私は唸るところだ。が、宮沢脚本はどうやらそうではない。舞台上の役者や満場の観客たちと一緒になって、ただ理由も論理もなく、本当に浮かれたかったらしい。

このあまりに楽天的な雰囲気はアタシもとても気になつたところ。かうした空気が、あの芝居で楽しいと思ふ心が「何のフシギもなく憲法第96条の改悪を見過ごし、改憲を見過ごし、徴兵制の制定を見過ごすのではなかろうか……」と。更に大切なことを述べてゐるので引用すると

現今の歌舞伎は、「考えること」を必要以上に貶めていないだろうか。歌舞伎独自の音楽や演出や型など様式面の特異性を追うあまり、肝腎の「コトバによる劇世界の構築」をおろそかにしてはいないだろうか。そして、歌舞伎であれ何であれ、いかなる戯曲であっても優れた作品とは、その時代の輿論の大勢に乗って浮かされるものではなく、卓抜した同時代への批評性を秘めているものではないだろうか。

……と、御意。この寸評でまさかアタシの拙文「明るいアベノミクスの時代の季節外れの花咲き物の感あり。世の中何もよくならないのに何だか気分でいゝ時代になつた、といふやうな」がまとめに引用されてゐて、驚いて眠気から覚める。恐縮。こそばゆいかぎり。本日、大型の台風がフィリピンから広東省西の湛江の方に抜けるやうで台風の影響で雨風強まる。三號警報発令。早晩に銅鑼湾の恭和堂に龜苓膏啜る。晩飯に越乃松露の辛口純米酒飲む。一週間分がどさっと配達された都新聞一読するうちに夜が更ける。
▼都新聞六日「こち特」で麻生ナチス発言にファシズム研究の池田浩士先生(京大名誉教授)が

「いつの間にか」なんて話ではなくドイツ全体が大変な騒動になった。その渦中で全権委任法は成立した。総選挙でナチスの得票率は43%にすぎず過半数が指示していない。大きな摩擦があったことは容易に推測できる。現在の日本にもナチスと似たところがある。(略)憲法改正論議を始めようにも簡単には進まないことは自民党もよくわかっている。だから「いつの間にか憲法が変わって」という発言は本音ではないか。

と指摘。宮台先生も晋三の「権力を縛る考えは王権時代の憲法。民主主義の国家である以上(憲法が)権力を縛るものであると同時に国の姿についてそれは書き込んでいくもの」といふ発言に対し「憲法は市民が統治権力にこうしろ、するな、と命令するもの。憲法という名前だけなら聖徳太子の十七条の憲法もあるし今の中国にも憲法はあるが近代憲法ではないから立憲体制と呼ばない。(略)意図を推測しても無意味で教養ある外国の政治家がどう受け取るかだけが問題だ」と、これは正論。この記事で田原牧デスク曰く

余計なお世話だが「保守」の人びとが気の毒でならない。保守の精髄は人類の経験知にある。だから歴史に無知な者は保守を名乗る資格がない。ところが保守を自任し政権党を率いるご両人(晋三と麻生:富柏村註)がこれである。新大久保の嫌韓デモしかり。現在の政治情勢は保守思想の信奉者にとっても正念場である。

といつもなららに鋭い指摘。だが晋三は「改憲は歴史的使命」とまで言及(こちら)。思慮深そうだが、たゞアンタの爺さんの受け売りだらうに。
「米軍ヘリ墜落炎上危険放置もはや限界だ」(沖縄タイムス六日社説)「米軍ヘリ墜落 理不尽は終わりにしたい」(琉球新報六日社説)。この両紙の社説はきちんといつも読むべき。後者に書かれる現実につき新潟M記者が「これが敗戦国ということだ。日本国首相の歴史的使命とは、国家の真の独立だ。わかったか晋三」と呟板に述べてゐる。だが、どれだけ日本の独立難しいか。上述の宮台先生が晋三や麻生の「無教養な発言で米国は「こんな政治家とそれを選ぶ日本国民は信用できない」と日本を見下して介入を強めに本の対米従属化が進むだろう」と述べてゐる。
▼日経「日曜に考える」で実哲也(論説副委員長)の「指導者にお任せは禁物 課題の解決、社会も責任」(こちら)が麻生ナチス発言から

いまの日本でナチズムのようなものが勃興することはありえないだろう。だが、健全な民主主義を維持し、強化していくうえで、ドラッカーナチス分析から学ぶべきことは多い。当時のドイツと程度は違うにせよ、経済の停滞が長引き、対外関係も緊張する中で、人々の価値観や物の見方に揺らぎが生じているようにみえるからだ。当時のドイツと程度は違うにせよ、経済の停滞が長引き、対外関係も緊張する中で、人々の価値観や物の見方に揺らぎが生じているようにみえるからだ。市場経済カニズムを重視したやり方で本当に暮らしは良くなり、格差は縮まるのか。戦後の平和外交のままで国は守れるのか。漠然とした不安や不満が頭をもたげている感がある。

と至極真っ当な指摘。日経にもこんなマトモな主張があるのか、と感心したが、ではどうやつて?の処方箋で挙げたのが「まずは長期政権を視野に入れた安倍晋三首相が指導力を発揮し、経済力強化につながる政策を実行することが重要になる」と、あ、やっぱりこゝか、と日経らしい落し所、で

「農民は穀物の値上げ、労働者はパンの値下げ、パン屋と食品店はより大きな利益を獲得する」。ナチスゲッペルス宣伝相はこう訴えたというが、国民をばかにした甘言には敢然とノーを突きつけねばならない。政治に圧力をかけるのは既得権益を守りたい人ばかりというのでは政治も正しく動けない。

……って、だからアベノミクスこそ、まさにこのゲッペルスぢゃないのよっ!と言ひたいところ。やはりさすが日経さんだ。実際に晋三は12日に山口県の農家訪問で「農村の収入を10年ぐらいで倍増したい」と宣つてゐる。10年後に倍増してゐなくても責任は不問なのだから政治家の空言。