富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2013-07-09

農暦六月初一。まぁ諸事に忙殺される一日だつたが鬱積した仕立物がだうにか片付きつゝある気配。早晩に銅鑼湾。知己に誘はれ博多道場に飰す。麦酒で次は焼酎ってのがいつものことだが鹿児島の方を前に青森出身のM氏が「日本酒にしませう」と。最後に〆で「お蕎麦かおにぎりでも」となるが「宗教上の理由で」と炭水化物お断り。我ながらご立派。久々にバーSに独飲。ヰルキンソンソーダ氷なしで角ハイボール一杯さっと飲み帰宅。
近松が活躍する以前の江戸初期の古浄瑠璃本『越後国柏崎弘知法印御伝記』は「裕福な家に生まれた放蕩息子が妻の死を契機に出家し修業の末に即身仏になる物語」で浄瑠璃史でも貴重だが日本にこれが残つておらず大英博物館に三百年以上も前から保存されてゐたが、これは十四世紀に即身仏となり今も越後長岡の西生寺に安置される弘智法印がモデルで1685年にこの浄瑠璃本は刷られドイツ人医師が長崎から持ち出し大英博物館蔵書となり鳥越文蔵博士が発見されたさう、四年前に文楽の越後角大夫が上演し好評だつたさうだが、これは縁の地、柏崎でも上演された由。キーン先生曰く「今、柏崎といえば過疎地に立地されがちな原発が連想される。だが古城瑠璃の舞台となったことからもわかるように昔から豊かな文化があった場所」で「日本はどこでボタンを掛け違え、なぜ柏崎に原発を受け入れることになったのか……」と嘆かれる。日本をこよなく愛する米国の碩学をこゝまで悲しませる日本。
▼怖いものなし、の梅原猛先生、都新聞の連載「思うままに」(本日夕刊)で得意の縄文文化につき岡本太郎師の「日本の芸術にはロクなものがなく縄文土器のみが世界に誇るべき日本の芸術品だ」といふ確言を引ひ「私は岡本の縄文論を受け継ぎながら、その思想及び経済的土台について考察を続けてきた」と。で縄文文明の見事さを説き「日本人がもっとも好む料理は寿司」で「米の飯の上に生魚が載った寿司は縄文文化弥生文化が融合した料理であり、まさに日本文化を象徴するもの」と断言。熟れ鮓の起源がそれ、といふ話は小泉武夫先生に尋ねたら面白そうだし、確か熟れ鮓の歴史は弥生時代まで遡る、なんて話が昔、柴田書店の『すしの本』ってのに出ていた、なんてこと、ふと思ひ出して確認すると、この本は昭和41年出版で読んだ年齢と合ひアタシの記憶も捨てたものぢゃない。で梅原先生は刺身=魚を生で食べるのが最高の料理とする民族は先進国でも他の民族にはない……と、こゝで「先進国」なる文明基準を用ゐてしまふことも危ないし、かつての先進国、葡萄牙や西班牙にも北欧にも「最高の料理」ではないが生魚喰ひもあるし、こゝまでの断定は一寸気になるが、梅原先生はもはや「これでいいのだ」の域。さらに「天台宗真言宗が合体した天台密教が生み出し、鎌倉仏教即ち浄土、禅、法華仏教の共通の前提となった「草木国土悉皆成仏」という思想は、移入された仏教が縄文文化の伝統の影響を受けてできたものではないかと思う」と、もう岡本太郎に勝るとも劣らぬ感覚の極楽なのだ。人間こゝまで思想が醍醐の世界に入れると幸せだと思ふ。どれだけ修業が必要かしら。
▼今日の信報に《號外》編集長の張鐵志「本土化與民主化―從台灣看香港」。「本土化既是民主化的動力,也可能反過來吞噬民主」と、この一言が深い。
在台灣的民主化過程中,本土化確實是主要的基底力量。1949年來台的國民黨政權是所謂的「外來政權」,意思是,那是一個移入的、強制在台灣社會上的一個國家機器、一套統治體制,尤其是由於禁止人民參與政治,因此缺乏民主正當性。除了外來和威權性質,這套統治體制也存在省籍分配的高度不平等:1949年前後從大陸來台的「外省人」雖然只佔台灣總體人口不到百分之二十,但黨、政、軍制度中的高層卻全由外省人佔據,所謂的民意機構如立法院和國民黨大會,其代表都是1947年在大陸選出、來台後沒有改選,因此毫無民意代表性,也讓「本省人」有嚴重的遭剥奪感。
主流的反對運動追求的是「公民民族主義」(civic nationalism),而不是「族群民族主義」。雖然在本土運動中仍然有這樣的邊緣聲音出現,而外省族群在九十年代也確實有這種對於本土化的恐懼與焦慮,尤其是在政客和媒體名嘴的操弄之下。不過,在這兩三年中港矛盾激烈化的背景下,「本土」開始成為一種對抗他者(中國)的認同政治,一種排外的族群主義,其結果可能是轉化成仇恨政治,或者空洞的民粹主義,而侵蝕公民社會所應有的公共理性和反思性;這不僅是香港本土運動的危機,也是民主運動的危機。