富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

台北に遊ぶ(二日目)

fookpaktsuen2013-05-18

農暦四月初九。今朝、部屋に新聞が官報の英字紙届けられてしまひ朝食に下りた際に中文紙に変へてもらつたら中國時報、で食堂に自由時報あつたので勝手に取り替える。その新聞に円安の記事あり台湾にとつては120円くらゐでほぼ殆どの産業界で恩恵あり、といふ。また円安で富士通ソニーなど台湾に海外外部生産委ねてきた企業が国内生産に転じ円安で重機や原動機など日本製の価格下がることで台湾のさうした産業への影響大。昨日から台湾のマスコミ報道見てゐて、兎に角とんでもないのが対フィリピンの台湾漁船乗組員殺傷への反発。気持ちはわかるが、あれは偶発「事故」として対応しないと。結局のところフィリピン側が台湾を「国家」として扱へぬことで馬英九政権の外交軟弱まで指摘される始末。早朝にタクシーで台北車站。七時半発花蓮行き自強号に乗車。指定満席でデッキに立つたまゝ45分ほどで瑞芳着。平渓線の発車まで半時間ほどあり瑞芳の古い街並散策。旧市街にはトロッコの線路跡が遊歩道に。線路の軌跡埋め込んだ石畳。終末、行楽客で賑はふ平渓線もさすがに朝九時までは、まだ乗客が皆坐れる程度。列車で近くに坐つた年老いても矍鑠とした父と娘二人だろうか、会話弾むなか台湾語の会話のなかに父が日本語堪能ゆゑ「よく喋るねぇ」だの日本語混じるのも今では日本語世代はもはや昭和一桁で八旬。瀑布も近く、侯孝賢監督の映画『恋恋風塵』でロケもあつた「十分」站でかなりの客が降り芳から45分程で終点の菁桐。昔、鉱山の経営や技師として遣られた日本人の宿舎が民宿やカフェに。此処にはバスで来たかなりの観光客がゐて、どうやら「十分」までつかの間の平渓線乗車が行程に含まれており、次の上り列車は立錐の余地もない混雑。ホームも溢れるほどの人だつたが幸ひに最初に乗つて座席確保出来て幸ひ。十分站で皆さん降りて日本人の老人ツアー客がガイドと乗つてきた程度で車内は静か。侯硐で下車。侯硐は三井系の炭坑会社により大正時代から開発始まり今でも停車場前に石炭積み出し場の建物朽ちつゝ現存。2004年に花蓮から台北に向かふ際に、急行莒光号でダイヤ乱れるなか此の站に止まり廃屋となつた巨大な炭坑施設に言葉もなかつたが(こちら)10年近く経ち朽ちるまゝ。この侯硐は猫の町としても著名。それ目当てに多くの愛猫家たちで寂れるまゝだつた曾ての炭坑町も活気あり。站前の老舗らしき阿蝦古早味麺店で春陽麺。かなりさつぱりで塩味絶妙。昼の区間車(各駅停車)で小一時間で台北に戻る。台北車站から武昌街城中市場の老牌牛肉拉麺大王に牛肉麺飰す。やはりこの食肆のが一番。麺のコシ。路線バスを国父記念館で乗り換へ永康街。土曜午後遅くもかなりの人出。台北陸の孤島的に嘗ては市街でひっそりとしてゐた永康街も今ではMRT(地下鉄中和蘆線)開通で便利に=雑踏多すつかり繁華街。Z嬢がブティックなど見る間、Z嬢に勧められ秋惠文庫で珈琲飲み一服。日本統治時代からのかなりの骨董蒐集。しかも歴史価値あるものばかり。文物博物館で参観のみも可。そんな悠長な商売が出来るのも、どうやら此処のご亭主が樓下の外科医(秋江診所)の林愷碩医師で有繋に医者の道楽は玄人の粋。1909年の「台湾経典写真照片」といふ当時の台北の写真集面白く眺めてゐたが圧巻は『日治時期畢業記念册展図録』で南投市にある國史館臺灣文獻館(こちら) の特別展で、どうやら日本統治期の学校の卒業アルバム多数集め、昔の学校のアルバムは集合写真がかなり多く、校長、教師を中心に左右、上に何段も並び正面向いて神妙な表情で……とそれだけ、といへばそれだけなのだが、そこから何を読み取るか、が面白いわけで「制服」編だけでも都会、田舎で服装も違へば裸足の子もおり原住民の学校では児童の年齢も明らかに異なるのが国民教育の始まりの頃らしい。そして修学旅行編。人気は新高山(玉山、3,952mで台湾最高峰)の麓にある巨樹に注連縄を巻いた神木で、ここへの参詣が非常に多い。そして内地。地方の小学校でも東都の二重橋から宮城拝み臣民としての自覚。時局編では15年戦争での日本の侵攻に合わせて「漢口陥落」の提灯行列など写真があるが当時はまさか其処で追われた国民党が近い将来に台湾占拠とは誰も思つてみなかつたはず。この図録は最後「内地留学」で終はる。「日本の」学校に入り制服着て日本語で学び修学旅行で東都訪れ、その最後が優秀なる学生が東都にて東大、早稲田、東京医大と留学する、その卒業アルバム。徹底した卒業アルバムへの関心。山口昌男的に面白い。ふら/\してゐたZ嬢も来てお茶してゐたら、あっといふ間に夕方。東門站からMRTで行天宮。路線バスでホテルに戻る。このホテル一寸場所は不便だが路線バスに乗れると、それなりに便利。日暮れて偶には観光夜市でも往つてみようか、といふ話になる。台北に何度遊んだか知れぬが士林夜市も一度も訪れたこともなし。ホテルの前から民生東路を東に往くと松山、よつて路線バス一本で饒河夜市へ。地元民多いといふがまぁ人、人、人。なんでわざ/\こんな芋を洗ふやうな人出に繰り出し押すな引くなで夜市で汗かきつゝB級グルメに舌鼓打つのか。でも昼間の炎天下より過ごし易く晩に賑やかなのが楽しい、ってのは昭和の昔々思へば納得。東發號なる老舗で肉羹と油飯、数軒隣りでマンゴーのかき氷、愛玉子など頬張り射的だのスマートボールなど懐かしい遊び場だの立ち並ぶ見世冷やかしつ夜市街をば往復。400mくらゐの横丁なのだが一時間余。魅力的な夜市の英雄、若頭、ママ、娘らが数多。中上健次向田邦子なら、どんな物語が此処で書けるかしら。路線バスでホテルに戻り台北二日目が終はる。
▼信報で林行止専欄が「麻生太郎印鈔票 高橋是清是祖師」と題して是清公を「日本のケインズ」と二日に亘り言及(十五、十六日)。初日の書き出しが「三月底,日本經濟「太上皇」、身兼四要職的財相麻生太郎對彭博記者說,他決定仿效(imitating)上世紀經濟大蕭條時期他的前輩高橋是清……」と首相までやつたギャング麻生から話始め昭和の宰相の殺害はあれは暗殺(政治的な目的で密かに……)でなく側近による謀殺(予め計画しての殺害で故殺に非ず)だとか内容も興味深いが最後に

非常明顯,安倍晉三政府只採納高橋的財政政策,而與英美保持盟國關係已成為日本政治基因;但安倍政府對高橋的親華政策置若罔聞,此中原因何在,也許東京和北京都有一本唸不出的經。

と是清公が中国との協調大切にしたこと取り上げて、のこの指摘。御意。