富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

団地巡り、ダービー、方榮記

fookpaktsuen2013-03-17

農暦二月初六。朝から沙田。長春社文化古蹟資源中心の主催。「我這一代沙田友 - 沙田屋邨導賞團」といふ行事ありZ嬢と参加。最初の左上の写真で右が今日のリーダーの八十後沙田友阿邦君で中文大学の歴史系のOBでアタシが20数年前に中文大学で人類学系なのは彼がまだ幼稚園生か。二十人弱の好事家のなか案の定、日本人でなぜ?と。瀝源邨の公共団地に向かひ「まさか?」と思つたら最初に盛記(1956年開業)で朝食から。「こんな特異な飲食店がこの団地にあるのです!」で殆ど皆さん初めてだらうが、アタシにとつては贔屓の盛記で店主に「よぉ!」なんて声をかけられると更に「なんだ、この日本人は?」となるのを恥じたが幸ひに店主不在。上述の阿邦君と一緒に写真に写るのが盛記の六十後・B哥で沙田生まれの沙田育ち。沙田の変遷を聴かせてくれる。瀝源邨から禾輋邨を巡る。1970年代にMcLehose総督によつて率先された新界のこのベッドタウンは当時の香港政庁にとつてのかなり本格的な都市計画。英国の田園都市構想が根本にあり、高層の公団住宅並ぶなか公園や噴水、花壇など、かなりゆとりあり。沙田のニュータウンプラザから瀝源邨、禾輋邨まで一直線に伸びて架けられた空中歩道は約1km、雨が降つても炎天下でも団地まで傘なし、日陰を歩けるのも立派。殺風景な郊外の公団団地のやうだが、かうして意識して歩き回ると、当時の完ぺきな都市計画が随所に見られる。禾輋邨にある「娯楽城」(写真右)は香港の公共団地で初めて出来たディスコや映画館、ボーリング場などある複合娯楽施設で歓楽施設。開業当時「環境悪化」でかなり評判悪かつたらしいが今もかなり老朽化したものの健在。かなり中上健次的。でZ嬢が「ちょっと、見て!」と何かと思へばマジに「いかにも昭和的な」(って香港の若者に昭和も関係ないが)浅草風お洒落の若衆が肩で風きつて歩いてゐるのだから。もう20数年前だが中文大学の研究院宿舎の悪友たちで此処の卡拉OKに来てアタシがクレジットカードで払つたら、しつかりカードデータをコピーされ数週間後にシアトルだかでアタシのカード不正利用されたことあり。左の写真2枚は今はなき大圍の自転車公園と背後に歓楽城遊園地&水上楽園、1985年の開業当時の沙田ニュータウンプラザ。今日のツアーでちょっと残念だつたのは、例へば「40年前に一家蒸発してしまつたまゝ数年前まで放置されてゐた部屋」とか禾輋邨出来たときに40歳で初めてマイホーム手にした今では長老の家とか、何かしら「普段はなか/\訪れることのできない」場所の訪問あるのだらう、と勝手に期待したが、あくまで町歩き。しかも長春社の二十代の若手なので彼らにとつては「とても昔のこと」でもアタシら年寄りには沙田だつて「八百半あつての」だし団地も子どもの頃の風景で、ちょっと感覚的には世代差あり。瀝源邨の内装屋に団地の典型的な間取り見取り図あり(長さの単位はインチ)。今では少なくなつた初期の住宅で、この2〜3人用住宅は台所と洗面所除くとワンルーム約12平米で3.6坪、そこが今兼寝室なのだから、かなり狭い。今日の団地巡り、集合は午前十時で十二時半には終はると聞いてゐたが十二時半にまだ禾輋邨で、そのアトにMTR東鐵の線路跨ぎ下禾輋邨に往くらしく、目の前に鳩料理で馳名の龍華酒店、アタシらは時間切れでここで一行とは左様なら。Z嬢はニュータウンプラザ方面へ。アタシは瀝源邨から89系統のバスで九龍西へ。午後は官邸でご執務しながら香港ダービーの競馬中継聞く。本当は競馬に行くはずが……。The Queen;s Silver Jubilee Cupはホワイト騎手のグロリアスデイズ(サイズ厩)に賭けたが昨年12月の香港マイル優勝のアンビシャスドラゴンが復活。ダービーは一番人気、デビュー四戦目(こちら)のAkeed Mofeed(Dubawi (IRE) -Wonder Why (GER) (Tiger Hill (IRE))が優勝(Racing Post)。騎手はホワイト師、調教師のRichard Gibsonは昨シーズンに香港で開業で30数勝の実績でダービー制覇はお見事。二着のEndowing(こちら)はこれを見事にここまで持つてきたサイズ調教師に敬服。アタシは地味にGold-Funの複勝狙ひで手堅く三着。仕事も済ませ早晩に九龍城。時間に余裕あるつもりが彩虹から10系統に乗つたら鑽石山から黄大仙下邨、東頭邨と、まぁ団地をぐる/\と回るバスで、今日は朝から団地巡り続き団地好きの泉麻人原武史なんて方々なら垂涎かしら、九龍城公園の上手でバスを下り、此処の美東樓は香港でも1960年代初期の公団住宅で、その建物の長さも格別、此処も面白いが団地見学はそれくらゐにして九龍城公園を抜けて方榮記沙嗲牛肉專家。今晩は貿易Y氏の内輪での送別会と題して最近のいつものメンツ十一名で宴会。アタシが着いた時には金融三人組到着してをり、その運んで来た酒、卓に並んでゐるのを見て唖然……なんだこの酒の量は。白2、ロゼ1本、赤2に日本酒四合瓶3本に黒糖焼酎(小)1と中央銀行特製のウィスキー前割1.5ℓほど。更に金融K嬢持参のChateauneuf du Papeの白って初めて飲んだがChateau des Fines Rochesに、建築H氏が「部屋に転がってゐた」と持ち込みがCh. Monbousquet2本。これを11人で全部飲んでしまつた萩尾望都。酒の持込み料はHK$240で、申し訳ございません。地元新蒲崗在住N夫妻と一緒に皆さんを運転手つきのお車2台見送りZ嬢と「これだけ飲んだあとに」地茂館で喳喳を飰す。106系統のバスで帰宅。

▼東京新聞日曜版の「学校の教材に役立つ大図解」は連載1086回で学校でも子どもたちに大変役に立つシリーズだと思ふ。が今日の「大島渚の世界」は「今どきの子どもたちに大島渚の何が必要なのか?」疑問。松竹と喧嘩して「予定調和の映画を作るなんて真っ平だ」と威勢はいゝが、映画会社のサラリーマン監督で会社と喧嘩してなら鈴木清順のほうが余っ程真っ当だし、この特集で取り上げてられてゐる大島渚本人の結婚30周年のパーティ(1990年)で自ら司会務め野坂昭如の出番うつかり飛ばしてしまひ野坂が殴り大島が殴り返した……なんてエピソードで何を子どもたちに学べ、といふのかしら。若松孝二が大島に都知事選立候補勧めたといふが大島が自由人気取り辞退……これは都民にとつて幸ひ、青島とどちらが最低になつたか。大島の息子が「大島はよく反体制の人と評される。しかし、彼が真に嫌悪したものは体制そのものよりも、そこに安住し日々を緊張感なく過ごす人々の在り方ではなかったか」と宣はれてゐるが大島渚こそ体制の人。60年代など時代が反体制だつたから反体制でゐたことなんて何も反体制でなく、80年代以降にテレビタレントで「馬鹿野郎!」と怒鳴つたところで何も世の中の為にならず。
▼日経の書評で「概説 世界経済史」ロンド・キャメロン&ラリー・ニール著を小関広洋氏の評で著者は「経済発展が人口、資源、技術、社会制度という4つの要因の相互関係によって決まる」と説き

社会の生産性が高まり、新しい資源の開発と技術革新が起こると人口増加が加速し経済は拡大するが、革新の停滞で生産性が鈍化すると社会的緊張が高まり、内乱や戦争が発生するというパターンを歴史は繰り返してきた。古代から現代に至る世界各国の経済史が、こうした大きな視点を軸としながら実証的に展開される。

と書いてゐる。日本は311の核禍、晋三政治でも内乱にならない、むしろ愛国心の高揚は、こりゃ『気分はもう戦争』なのかしら。
▼今日の日経の憲法改正記事「日本は「硬性」 改正難しく 賛成・反対 活発な議論まず必要」で書き出しこそ「歴史的に市民が権力の横暴を許さないためにつくられた憲法は、時の権力者の意向で簡単に変えられることがないよう、他の法律に比べて改正が難しくなっている」と良識的。だが

日本で改憲が進まないのは改正の手続きが「硬性」なだけでなく、革新政党などを中心に「憲法改正戦争放棄を定める9条の改悪」との警戒感や固定観念が強く、改憲の議論自体がタブー視されてきた影響が大きい。日本の国会や論壇も改憲の賛成派と反対派による実際的な熟議を避けてきたとの指摘がある。

って、まるで護憲派が迷惑な存在のやう。護憲は確かに革新政党がここ40年ほど盛んに主張してはゐるが、そも/\護憲は保守も革新も超へた思考のはず。日本の場合、護憲が硬直的にならざるを得ないのは、何よりも改憲=逆コースが危険なため。もと/\市民革命で近代国家となり「くにのかたち」が確固たるものあれば断固護憲などする必要もなかつたはずなのだが。
全人代閉幕。習近平氏が「重要演説」で「軍は断固として国の主権、発展の利益を守らねばならない」と述べ「軍を強化する必要性を強調」と朝日など伝へるが読み方によつては「軍の独走への懸念」と読めなくもなし。それにしても「中華民族の偉大な復興という「中国の夢」を実現させるため、国家の富強、民族の振興、人民の幸福を実現させる」となんて、まだ「社会主義国家の建設」のほうが健全といふか「中華民族の偉大なる復興」に加へ「中国の夢」なんて、なんだか段々と中共の建設する国家像が曖昧に。これもかなり怖い方向。
▼新聞の当初でパソコンで打つた遺言状は無効と知る。パソコンで打とうが自筆だろうがサインが本人ならいゝと思ふのだが、そも/\印鑑社会……。