富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

曼谷でもんぢゃ焼き

fookpaktsuen2012-10-05

農暦八月二十日。昨晩は九時くらゐに寝てしまつたので起きたら夜中の三時半。まだタイの坊さんたちも寝てゐる時間。昨日の日剰上網するが山間のこのリゾートはテレビすら客室に置かぬのだから立派だが当然、部屋にネット回線もなく、辛うじてネットがWi-Fiになつてゐるもののかなり脆弱で繋がつたり繋がらなかつたり。フロントに一度だけ問ふと、だいたいこんな山間に遊びネットがだうのかうのと騒ぐのが野暮だが、iPhoneiPadは何度かワイヤレスでon/offを繰り返して、といはれ(確かにつながる時がある)、でもMacBookはかなり相性悪いやうで一向につながらぬ。iPhoneはタイのSIMを入れてゐたので幸いに繋がりはするが当然3Gなんてチェンラーイ市街はあつたが山間はさうはいかず下載が0.10mb/s、上載が0.06mb/sだ。アナログ電話時代のモデムでももっと速かったかしら。でもタイの北部、ミャンマーラオスの国境まで10数kmの辺境の山間だと思えばネットがつながるだけでも凄い。そしてさすがにiPhoneで日記書くやうな芸(畏友William鄧達智兄はご母堂危篤の折に病院の待合室でiPhone使つて蘋果日報連載の原稿仕上げたさうだが)は持ち合はせぬし(iPadならバンコクからマレーシアに向かふ寝台列車の車内から試みたこともあるが)iPhoneホットスポットなる機能用ひてMacBookを繋ぎ日剰をば上網することとなる。ちなみにさうする際の速度は更に遅くなり下載が0.08mb/s、上載が0.04mb/sとなる。今までの最遅記録。雑誌『世界』十月号読む。朝食。此処の美味しい自家製ヨーグルトももう最後。昼前の退房まで読書。今回の旅行は画期的なことだが持参した書籍あと一冊残す以外五、六冊読んでしまつた。高原のリゾートで毎日が何するでもなく無聊の日々も年に一、二度はかうしてゐたいもの。三日前投宿の際に出したランドリーが戻つて来ず催促するのも大人げないと待つてゐたが今朝、さすがに帳場に告げるとアタシらが帳場のバンガローでたあと「マジ〜かぁ」と(かぁ、はタイ語で)電話口でタイ人にしては珍しく大きな声がして、だうやら、案の定まだ洗つてゐなかつたのか一時間もすると出来立てほや/\でランドリーが届いた。昼前に荷造りして退房。リゾートのリムジン(相変わらずスズキの軽自動車)でチェンラーイ空港へ。アジア航空業界のかつては三流、今は見上げたもんだよ優等生のエアエイジアFD3255便でバンコクへ。空港の郵便局で日本に今どき絵はがき一葉送ると฿15也。朝、リゾートの受付でこれの郵送を託そうとしたら「EMSか?」と聞かれ、絵はがきがEMSのはずないだらう!と思つたが、これはタイにありがちな「とりあへず会話」。で通常の航空便だと告げると少し考へて฿50(190円)だといふ。Z嬢が「そんな高いはずないでしょう、まさか」と断つたが、これはボッてゐるのではなく、いくらかは正確にはわからないけど฿50もらつてをけばホテル側も損もしないしリゾート客も「一寸、高いかもしれないけど……まぁ、いゝか」と思ふくらゐの「折り合ひ」価格なのだらう。だが฿20でトゥクトゥクの運転手と折り合ひのつかないアタシたちなので฿50もとるなら頼まない、としたものだつた。エアエイジアでは水一杯(無料では)供されないので搭乗前にホットドック食し携帯の水を飲む。だがエアエイジアの機内食値段は空港の飲食店より安くて良心的なのは誤解なきやう。エアエイジアは自由席なので搭乗客がみんな良席を確保しやうと積極的に早くゲートインして搭乗予定時間には並ぶので結果的に出発も早くなる。なんて合理的。アタシらは自由席厭ひ追加料金払ひ座席指定して1Aと1Bで董建華夫人気分。バンコクの国内線専用となつたドンムアン空港には予定より20分も早く到着。懐かしい旧空港。タクシー乗り場で行き先を告げタイ語で書いてくれる服務台もそのまゝで懐かしいかぎり。タクシーで市内に向かふが「どうも行き先が違ふ」と思つたら行き先カードにはちゃんとNai Lart Parkとホテル名書かれてゐたがタクシー運転手がカード見ず、アタシがナイラートイルトンと言つたら(このホテルは旧ヒルトン=Hは発音せずイルトン)運転手に「シーロムの?」といはれ「シーロムではないけど……近いからシーロムでいゝか(笑)」と思ひつつ、つひ頷いてしまつたらアタシの発音も悪くてシーロムのナライホテルに向かつてしまひシーロムからルンピニ公園の渋滞に巻き込まれる羽目に。ホテル到着は遅れた上にホテルでは何だかBangkok Intl Flower Showだか開催中で、その所為かいつもわりに閑散としてゐるホテルが混雑で「まだ部屋が用意できない、午後五時すぎまで待つてほしい」といふ。喫煙可の部屋はイヤだし「無料で」アップグレードしてよ、と請ひたが爆満なので聞き入れられず。カフェの無料券くれたが時間潰しに伊勢丹紀伊国屋へ。香港にもこれくらゐマシな書店があれば、といつも思ふ。文庫本数冊購ふ。ホテルに戻り下榻は午後五時半すぎ。早晩にプルーンチット站近くにあるDon Donといふ日本料理屋。津M女史の従兄氏の経営でご紹介。曼谷Y氏夫妻、半年前に香港から曼谷に移つたN嬢と「もんじゃ焼き」ときつねうどん飰す。お三方とも関西人だが関東のアタシもZ嬢も「もんじゃ」なんて今まで一、二度くらゐしか食したことなく大阪人のY氏が独立前に勤めてゐた会社の東京本社が浅草橋で彼が一番「もんじゃ」に詳しかつた。もんじゃの語源は知らないが利休のころの「麩の焼き」が江戸に伝はり「もんじゃ」となり近代にこれが関西に戻りお好み焼きになつたとか。晩九時で明日の健康診断で飲食停止。驟雨のなかホテルに戻り就寝。
▼畏友・村上湛君より「鵜殿の蘆」がいよ/\危機的状況にあることを知らされました、と報せあり。「能「江口」にも謡はれる淀川河畔・鵜殿の蘆原は雅楽器・篳篥の舌(リード)に用いる良質の蘆(よし)を産する無二の土地で、ここに高速道路建設が予定」されてゐる由(こちら)。湛君のブログはこちら。相変はらずの土建国家ぶり。人形浄瑠璃への助成すら撤廃しようとする橋下大阪は雅楽ときけば天皇主義で高速道路取り消し、とか。橋下といへば傘下ならぬ橋下(きょうか)の東京維新の会が四日都議会第三回定例会最終本会議で「現行の日本国憲法を無効とし戦前の「大日本帝国憲法」の復活を求める時代錯誤の請願に賛成」の由(赤旗)。「我々臣民としては、国民主権という傲慢な思想を直ちに放棄」して日本国憲法を無効とし大日本帝国憲法は現存するとの都議会決議を求めたもので、さすがに自民、民主から共産まで反対。
▼岩波『世界』十月号。マスコミ言論にあつて誠実そうな同誌だが、この雑誌ですら「日本の学校において、いじめが深刻化し子どもが自殺にまで追い込まれるという悲劇が始まってから四半世紀たつ」(喜多明人)だの、東チモールで「数々の苦境を経て東ティモールはようやく民主化への道を歩み出している。一方で住民の四分の三は地方に暮らし、その生活条件は厳しいままだ」(Le Monde diplomatiqueの評論記事に恐らく「世界」編集部がつけたリード)など、一寸したことだが言葉が泳いでゐる点が気になる。前者は子どもがいじめで自殺したのは25年前=1986年の東京中野区の公立中学での自殺がけして初めてだつたはずもなく、後者は大都市集中化に疑問呈し地方分権を語る同誌がなぜ「住民の四分の三が地方暮らし」をネガティブに捉え地方=貧困と(それが事実としても)さうするのか。かういふところがアタシはとても気になる。論説以前のディスクールでの常識化が怖い。以下、覚へ書き①寺中誠「入管法改定による外国人管理の新局面」が面白い。日本在住の外国人にとつてはこれまで出入国管理と地方自治体レベルでの外国人登録が二本立てだつたので在日外国人にとつては不都合もあるが「現場レベルでの裁量の余地」もあつたのだが改訂で在留管理を法務大臣が一元的に行い、いわば外国人に対しても住基カードのやうな援用されるもの。当然、非正規滞在者の追ひ出しや警察の不法滞在者=治安悪化といふPRが定着したもの。で、そこにあるのは「外国人嫌悪」に他ならず。実は地方レベルでは外国人が住民として定着してゐるが国家レベルではさうはいかないらしい。②寺島実郎が件の坂本龍一「たかが電気」発言について「文化人も自らの存在基盤たる経済への真摯な認識を失ってはならない」「額に汗して働き、事業に参画して、他者の生活に貢献する経済活動は重く、それが文化を想像する基盤」と指摘し「たかが電気」は一人の文化人の「言い過ぎ」というより「時代の空気の象徴」で「多くの人が供給側と需要側、加害者と被害者を切り分け、自分を需要側の被害者として「正義を掲げた攻撃側」に立つ錯覚を抱きがち」「だが経済は常に循環・相関しており、人間として生きるにはそのシステムに身を置く誰もが時に供給者、時に受益者として関わらざるをえない」もので「その複雑さを噛みしめて自分自身が日常的に「何かを奪い殺して生きている」という宮沢賢治的な思惟が不可欠なのだ」と。御意。原子力に関しては問題は結局のところ対米で真剣な利害調整が必要で米国の核抑止力の下、日米原子力共同体に身を置く日本がどうして易々と「脱原発」できようか、米国に対峙してまで脱原発するだけの思慮と勇気があるのか、と。原発の事故調査はいずれも一言も米国GE社の責任に触れず、トヨタ自動車社長は自動車事故の安全性問はれ米議会に呼び出されてもGE社のトップを霞ヶ関に召くやうな意識も日本の議会にはない。寺島氏は結局のところ、さういふ実悪を知つて知らぬふりで、の態度の甘さを指摘。脱原発は(ドイツとは違ひ、北朝鮮や中国の軍事的脅威を米国が感じるかぎり)日本にとつて容易なものではない。③特集「日中国交回復40年」が面白い。とくに劉建平「日中関係は「不正常」な状態が続いている」、石井明「日本と西独を競わせる - 周恩来の戦略的国交正常化外交、③福岡愛子周恩来の「特派員」が見た国交回復」の3つが出色。3つとも日本と中国が国交回復する1970年代前半の外交交渉を見てゐるが、今になつて思ふに当時の周恩来自民党田中首相、大平外相コンビばかりか親台派の栄作、中曽根を含め何と大局が見えてゐることか、それに公明党の竹下君の「特使もどき」の活躍。日本の新聞社にも国交回復三原則を認めさせるなど中国外交部の手段には疑問もあるが、日中国交回復といふ目標で大人たちが動いてゐた時代。やはり戦争を知つてゐる世代だからこそ、なのでせう。さらに周恩来は日本と交渉しつゝ内には周恩来外交に反対する文革派(のちの四人組)。アタシはNHKの朝のニュースで井川アナウンサーが角栄訪中、日中共同声明調印を伝へるなか1973年のことなのだが母がテレビニュースみながら「これからは中国の時代、そのうち日本なんて中国に呑み込まれちゃんだから」と言つたのと、もう一つ印象強く覚へてゐるのが、北京で調印の済んだ角栄一行がどうして「遊びのやうに」上海に立ち寄つたのか。これは毛沢東の「もう喧嘩は済みましたか」が有名で日本と中国が三原則など困難な問題で解決策見つけるのに時間を要して、角栄の「迷惑をかけた」といふ謝罪に中国側が反発し冷却期間が必要だつた、とか言はれてゐるが、それに加へ上海行きは周恩来文革派にこの周恩来率ゐる外交部の外交の成功を見せつける意味があつた、といふ。福岡女史は劉の公明党竹入氏の「特使もどき」をこの当時の北京日報東京特派員=対日工作のための中国外交部要員たる王泰平の日記から裏づける。ここで岡田充の領土についての指摘を紹介してゐる。

国境を越えるグローバリズム経済が「主権国家と政府の力を否応なく減衰させている」今、「領土」が、空洞化した国家のシンボルとして、強力な国家再興を夢見る人たちにとって抗い難いテーマとなっている。

詳細は岡田充「領土は空洞化する国のシンボル - 傾聴に値する馬英九提案」(こちら)。 

世界 2012年 10月号 [雑誌]

世界 2012年 10月号 [雑誌]