富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

日中「島争ひ」荒島化!

fookpaktsuen2012-10-04

農暦八月十九日。朝四時半に目覚め夜明けまで読書。朝食に粥といふか正確には泡飯を啜る。昼前に派手なスコール。今日の昼はチャーハン。村上斉『宇宙は何でできているのか』冬幻社新書、読む。晴れたり雨が降つたり、のなかバルコニーでぼんやりと毎日この山の風景を眺めながら三日目。することといへば着てゐたものを洗濯して、バルコニーに干すが多湿でなか/\乾かない、と気にするくらゐ。爪の手入れ。Z嬢は今回のこのりぞーと滞在での唯一のアクティビティでスパでのエステにお出かけ。藤井省三魯迅岩波新書読む。リゾートでも酒をやらぬとこんなに本も読めるものか、と我ながら驚く。日暮れ。六時の晩鐘。何もしないでごろ/\してゐて腹など空くか、と思はれるが食事のポーションが小さいので、かなり空腹感あり太りもせず。夕餉。地元のハムや春巻きで白飯。岩波『世界』十月号読む。この数日この山間のリゾートで一つ残念なことは月が全くない。雨は夜に降らずとも雲多し。星もよく見えず。
▼信報で日中「島争ひ」につき丁望さんの

擱置爭議的具體舉措,應是停止關於釣魚島的國際宣傳戰,把釣魚島荒島化,形成「靜寂期」。荒島化的意涵是不在島上建設施、豎旗幟;靜寂期的意涵是禁登島,各自攔截居民、漁船靠岸,雙方磋商海事、漁業行政管理的協調。

日中の争ひ島を「荒島化」せよ、と。島に誰もはいらない、施設を設けない、旗を揚げない、付近の住民の漁業のみ認め海事や水産行政の協調を、と。御意。「荒島化」といはれると漢詩の世界。
▼村上斉『宇宙は何でできているのか』冬幻社新書。素粒子物理学で解く宇宙の謎……なんて副題で「理解できるはずがない」でぞっとするが草間彌生刀自がスタジオで助手にこの本を手渡され「これが読みたかったの」と仰つたのを聴いて、やはりこれくらゐ読んでゐないと視野に美しさなど理解できないのだ、と思ひ村上斉先生ならきつと分かり易く書いてくれてゐるだらう、と思ひつゝ日常生活で路線バスの中でなんてとても読めないと思つて今回持参。宇宙の果てはだうなつてゐるのか?はかなり観測困難だが逆に原子の中のミクロの世界を探ることで宇宙の仕組みがわかるといふ、この発想ならアタシも十代でピンときていた程度のことで、そのため、自分の尻尾を噛むウロボロスの蛇のたとへは理解できるし第1章の「宇宙は何でできているんか」から第2章「究極の素粒子を探せ!」くらゐまではどうにか読んでゐられる。今になつて思へばアタシだつて中学生のときなどブルーバックス大好きで「パウエルの悪魔」とか面白く読んでゐたのだつた。が第3章で量子力学なんて出てくると著者はけして難しく書かないと言つてゐたくせに、やはり素人には難しく第4章「湯川理論から小林・益川理論へ」となると全くの珍紛漢紛。結局のところ、序章のウロボロスの蛇から具体的には216頁まで飛んで良い。でビッグバンで生まれた宇宙は膨張がいつか減速するか、膨張から収縮が始まり、やがて潰れるか、あるいは永遠に膨張し続ける可能性もないわけでもなく、膨張が止まり均衡となるか……なんて考へられてきたのが最近の研究で宇宙は減速するどころか膨張が加速してゐることがわかり、そのエネルギーのもとが宇宙にある(とされる)暗黒エネルギーで、膨大なこのエネルギーについてはまだわかつてゐない、が結論。でこの暗黒エネルギーが増大し続けていくと宇宙の膨張も速度が無限大に達して……でどうなるか、それが宇宙の終りなのか、でそれを研究してゐるのが著者の村山先生が初代の機構長を勤める東大の数物連携宇宙研究機構(IPMU)です、これからも頑張つて研究を続けます!……何だかこの本は2010年9月に初版が出てゐるのだが民主党政権になりいろ/\な支出見直しが学界すら席巻するなか文科省が世界トップレベルの研究拠点として発足させたこのIPMUも予算カットされては……で代表の村山先生がバカな国会議員でも読めるやうに、と上梓したのがこれなのかしら。
藤井省三魯迅岩波新書魯迅を一通り読み魯迅から現代までの中国現代史を或る程度理解してゐれば、この本は入門書的で特に目新しいこともなく同時代的に魯迅の姿を追ふばかりで大した面白みもなし。強ひて挙げれば竹内好批判が濃厚で竹内好嫌ひのアタシには溜飲も下がる(笑)。1984年だつたか当時まだ外国人が旅行するには面倒だつた上海で一人で探し/\虹口区に魯迅故居、内山書店、魯迅の墓地訪れたのも懐かしいが1936年の魯迅逝去の際の争議委員会の名簿をこの藤田魯迅本で初めて知つた。蔡元培、宋慶齢毛沢東、内山完造、アグネス=スメドレー、茅盾……と蒼々たる人物、これに後に魯迅実弟・周作人らが加わる。葬儀で棺桶担いだのが巴金、胡風の由。そして革命に魯迅をすつかり利用した毛沢東の1957年の発言:上海で文化人グループに「もしも今日、魯迅がまだ生きていたら、どうなっていたでしょうか?」と質され毛沢東の返答は「私が思うに、牢屋に閉じ込められながらもなおも書こうとしているか、大勢を知って沈黙しているかだろう」と……何とまぁさすが毛沢東としか言ひやうがないですよ、これぢゃ。それにしても著者、藤井省三の中国文学の先生がなにを目的にこの新書を書いたのか、上述の竹内好非難は昔は許されなかつただらうが今では竹内好なんて知つてゐるのはかなり上の世代だけで批判もあまり意味もない。副題には「東アジアを生きる文学」とあり、確かに日本、韓国、台湾や香港、新加坡で魯迅が今も、だう読まれてゐるか、は紹介されてはゐるが本題にするほどの内容でもない。敢へて巫山戯て言へば著者には『村上春樹のなかの中国』もあり、この新書でもかなり村上春樹にをける魯迅の影響を力説。まさか、これもハルキムラカミのノーベル文学賞狙ひの一冊と迄は思はないが最後に著者が語るのは「偶然のことであろうが」としつゝ魯迅の本名・周樹人(shujujin)とハルキムラカミの春樹の音読み(shunju))の相似性を挙げ、

考えようによっては、魯迅村上春樹という現代アジアで最も親しまれている二人の作家のあいだの因縁を示唆するものと言えるのではありまいか。

を結語としてゐる。マジか……一寸、怖い。アタシが岩波新書の編集者なら「先生、ちょっと最後のこの結語だけは、どうにかなりませんでしょうか……」と嘆願するところだが(笑)。やはり大学の先生といふのは頭が良すぎる……。でも、アタシが編集者だったら、きっと呆れて「先生、もう一つ発見が。藤井省三の shozo も魯迅の弟の周作人の周をローマ字読み(shu)、作人を拼音で読むと、shuzuoren で先生のお名前と相似性がっ!」とか言つて可愛がられる鴨。

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)

魯迅――東アジアを生きる文学 (岩波新書)

魯迅――東アジアを生きる文学 (岩波新書)