富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

「遊」

fookpaktsuen2012-10-03

農暦八月十八日。「遊」の意味は、移動すること、逍遥して楽しむこと、自由な境涯を生きること、と白川静『字通』にある由。まさにこれがアタシには人生の理想。自然のなかの山間の宿で池なども多く遠くには田圃が広がり朝はカエルの大合唱で目覚めるかしら、と覚悟してゐたが、機が機なら後朝に衣の音すら恥じらふやうな静かな朝。夜明けとともに目覚む。七時から朝食はそれなりの客をり、リゾートとは別にオーナーロッジが高所にあり、そこにお泊まりの、かなり品のよいお客さま方少なからず。食後に広い敷地内を(どこまで敷地なのかも不明だが)ぐるりと歩く。茶畑、高原野菜の段々畑、その高所にこのいはゞ荘園主の山荘。歩くとさすがに汗びっしょりで、炎天下、そのまゝプールに飛び込む。部屋に戻ると小雨。昼過ぎまで読書。沖浦和光著『「悪所」の民俗誌』読了。さすがに客はみんな物見遊山に出払つてゐるのか昼餉の食堂はアタシらの他は支配人S氏のみ。カレー味の麺を飰す。昼に酒をやっちまふと午後爆睡に陥るので禁酒。午後も読書。嗚呼、快適。幾度かの通り雨。日曜晩にチェンマイで購つたブランデーターイが空く。此処からは酒を買ひに出かけることも出来ない。暗くなつたのでバルコニーでの読書止め夕食。昨晩の残りの葡萄酒。トムヤンクンとカレー2種で฿650もとられるのはやはりリゾート価格。長く風呂に浸かる。古川隆久著『昭和天皇』(中公新書)読了。新書とはいへ400頁の大著。こんな無聊のときしか一気読みできず。
沖浦和光著『「悪所」の民俗誌』(文春新書)読む。筆者は昭和二年に摂津の、まだ遊芸民や遊行者と呼ばれる乞食巡礼が歩く街道筋で生まれ釜ヶ崎に育つたといふから「悪所」や非差別民を自然と知る環境にあつたことになる。アタシも水戸のまだ賑やかだつた頃の歓楽街で生まれ育つたので「悪所」の気配は子どもでもわかる、そこいらじゅうにあり「悪所」は寧ろ懐かしい。さうした「悪所」について、遊女や芸人について真面目に語つていくので教科書的であるように思へたが、<聖>と<賤>についての記述で

宮廷に入った遊女たちは、「聖なる」天皇と結びつくことによって「聖別」された身になったわけではない。その店では、天皇の<聖>性そのものに深く切り込まないままに、天皇に直属する職能民を一種の「聖別」された集団と見なす網野善彦の諸説には賛成できない。その政治的な衣を一皮剥げば、俗人と五十歩百歩である天皇に、他社に聖性を付与するような宗教的呪力はない。元を正せば、肉体も精神も只のヒトにすぎない。そのことを肌身で感じていたのは、後宮に出入りする天皇法皇をじかに見ていた人だちだった。法皇流罪にした武家も、自分たちと同じヒトと見ていたに違いない。覇権を握った集団の中で、ある特定の血統が「聖なる者」として推されたとしても、それはかりそめのカリスマにすぎない。その支配権力が失われれば、その聖性はたちまち崩壊する。自然界に哺乳類の一員として生きるヒトに、<聖>性を付与するものがあるとすれば、それは大自然の神々である。

なんて、かなり大それた「それを言っちゃぁおしめぇよ」の言及もあり、そんな方だからこの本が面白くなる。吉野の山や野生の櫻は別にして市街で櫻が植へられたのは吉原など遊里にこそ仲之町に櫻花、大門の外に柳、で花柳界だが、この本読んでゐて思つたが、その櫻が明治になると天皇の地方行幸とともに国家のシンボル化してゆくのだから可笑しいかぎり。沖浦先生は「性愛」についても大胆に語る。

真の「色事」は、法に定められた婚姻制度の埒外で発生したものである。(略)身分制社会における婚姻は「家」を継ぐ種をもうけることが第一義であって愛情があるかどうかは問うところではなかった。従って、文学や芸能では、夫婦間の性(セックス)は、そもそも題材にならなかった。実はそこに、性愛の根源に関わる問題が潜んでいたのである。そのことは、先にみたように忠誠における遊女の歴史を繙けばよく分かる。

なるほど……確かに夫婦間の性事など文学芸能では詰まらない……と思ひつつ子どものころ盗み読みした宇能鴻一郎川上宗薫、スポーツ新聞のエロ小説では夫婦間の性行為もネタになつてゐたような……と思つたが思い返せば大抵が旦那との通常の性生活では満足できぬ淫乱妻がどーしたこーした、で異常性欲がネタだつた鴨。でこの悪所を語る本だが内容は悪所よりも悪所文学の方に話題が転じ享保の柳沢淇園(1704〜1758)『ひとりね』*1から荷風の花柳文学へと進み、かなりの頁を割いて荷風散人について語るのは予想外*2
古川隆久昭和天皇中公新書は副題が「理性の君主」の孤独、と著者の昭和天皇に対する評価はこの一言に尽きる。基本的には若い頃に近代国家統治に関して明治の賢勲たちから完ぺきな帝王学学び大正デモクラシー、皇太子時代の渡欧での実りを活かし大衆の支持を得た立憲君主制の確立を願たが昭和前期の軍国主義でその夢が破れ戦後は戦争責任の問題をかゝへながら戦前に実現できなかつた立憲君主制を実現し、で結果的は稀代の元首だつたことは事実。それにしてもあきらかに倫敦海軍軍縮から満州事変、日中戦争勃発時の判断は誤り、二二六事件での勅語改竄容認や溥儀皇帝来日での軍旗敬礼(同書191頁)、近衛の起用、日米開戦も慎重派の意見退け開戦と決定したのは昭和天皇自身で(西園寺、牧野といつた輔弼を欠いたからにせよ)重大な局面になると余りに弱さ、判断の誤りが目立ち、サイパン陥落で「もはやこれまで」と達観しつゝその「聖断」の遅れから(勿論、好戦的な軍を抑へることで天皇が敵視され退位させられるリスクもあつたが)「太平洋戦争における日本の戦死者約175万人の過半数と民間人死者約80万人のほとんどがサイパン陥落以後」であり天皇の戦争責任は免れようはずもない。また明晰ではある方だが戦争責任を「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので……」とか広島への原爆投下は「やむを得ない」といつた発言が真意ではなく「舌足らず」あつたのも事実。それでも憎めない人柄といふか「負け惜しみと思うかも知れぬが、敗戦の結果とはいえ我が憲法の改正も出来た」ので「我が国民にとって勝利の結果極端なる軍国主義となるよりも却って幸福」(寺崎日記)といふ(国権の最高責任者としては聊か無責任だが)素直な平和的立憲君主主義の理想で、それが戦後、日本がまた軍国主義になる可能性は?、戦争は?といふ質問に「そうなることはない。憲法が禁じているから」と素直な考へにつながり、在野に自主憲法制定、再軍備といふ岸、鳩山から中曽根への声が響いても昭和天皇の御代では憲法改正が出来ないといふジレンマにつながり(私見だが)平成天皇戦後民主主義的な護憲主義となる。これは興味深いところ。また田中義一小選挙区制導入を伝へると昭和天皇は「一流人物の落選を見るが如き虞なきや」「投票の効果を滅殺するの結果、無産党の如きものの代表を阻み、之をして竟に直接行動を執らしむに至の虞なきや」と指摘してゐる点など細川殿の小選挙区導入のときに思い返されるべきだつただらう。愚生この本を読むまで無知だつたが天皇のお田植えと稲刈りは昔からの伝統なのか、とてつきり信じてゐたが1926年に殖産奨励に合はせての近代的行為。また「元老」といふのも、明治の元勲に対して漠然と呼ばれる尊称かと思つてゐたが制度としては存在せぬものの「元老として処遇することを天皇が本人に勅語で示す」ものだつた。著者があとがきに書いてゐるが「日本はどの国よりも昔から天皇が統治する国として安定して存続してきたとされたため、日本の人々に過剰に自国の卓越性を意識させてしまった結果、周辺地域の人々への蔑視が強まって不必要な対外的緊張をまねいた」のが現実の歴史で、さうした中で天皇天皇自身より寧ろ明治以降、「天皇制」なるもの(幻想なのだが)が大事とされたことが誤り。西園寺公の言葉を借りれば「此頃の憂国者には余程偽物多し」として「妄りに皇室の尊厳を語り、皇室をかさに着て政府の倒壊を策するものすらあり」「国粋論者は動(やや)もすれば狭き見解に拘泥して他を見ず、固陋甚だし却て有害なり」とさすが。このまま今の世にこの西園寺翁の言葉を当てれば都知事だの自民党の腹痛総裁だの怪しげな顔浮かぶも少なからず。

「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー (文春新書)

「悪所」の民俗誌―色町・芝居町のトポロジー (文春新書)

昭和天皇―「理性の君主」の孤独 (中公新書)

昭和天皇―「理性の君主」の孤独 (中公新書)

*1:岩波版「日本古典文学大系」近代随筆集に収録あり←覚書き

*2:岩波版全集二刷第14巻←覚書き