富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

「みんな」の時代

fookpaktsuen2012-09-28

農暦八月十三日。せこ/\と繕つてきた「ユーザ辞書」がiCloudで介して連動するのはありがいと思つてゐたが、いつからiPhoneまでもこのユーザ辞書を反映するやうになつてゐたのかしら。iPhoneでメッセージ書いてゐて「せんかく」で「釣魚」が突然出てきて「あ、これは自分の辞書だ」と発見。晩飯にトマトのミートソースでパスタを飰す。NHKスペシャル「“水玉の女王”草間彌生の全力疾走」見る。草間彌生の「あれ」は水玉ぢゃなくて「ドット」「点々」だとワタシは思ふ。草間刀自の傍らにいつも先生から「おにいさん」と呼ばれる、小学から高校まで12年一緒だつた畏友T君の姿あり。四半世紀前に国立のカフェバーで「今度、草間彌生ってアーティストの、病院にアトリエがあってね、そこでアシスタントすることになったのよ」と言つてゐたT君が今では草間スタジオの代表。ちょっと一つ今、構想といふか夢のやうなプランあり。
▼劉健威兄がお孫さんの、かしら幼稚園でもすでに愛国教育が始まつてゐる、と宿題を顔本で披露。
▼ハルキムラカミ氏が朝日新聞に、領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」だかと寄稿(こちら)が話題に。アタシにとつては「安酒の酔ひ」どころか「民族主義といふ悪酔ひ」だが。

国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。(略)安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲むような努力を重ねてきたのだ。そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。

だなんて、いかにもハルキムラカミ氏らしい言ひ回し、で結局のところ何をどうすればいゝのよ?はわからない。「だから僕はその理想的な流行作家の言葉よりも安倍さんとか橋下さんの、ちょっと危なげなんだけれど何かを打開しそうな、打開しないまでも今の閉塞感だけは心臓に電気ショックを与えるみたいな、そんな賭けのほうが、もうどうしようもない時代ではこっちのほうがいいような気がする。高くて厚い壁に向かって一生懸命いくつもの生卵を投げても壁は汚れるだけで壁は絶対に壊れない。それなら、壁の向こう側にいる政治家が壁を壊してくれるほうが、僕はけしてその政治家を信用しているわけじゃないんだけど、ここはその破壊に期待したほうがいいような気がするんだ、わかるかな……」なーんてね、こんなフィーリングの方が今の若者的なのかしら、あーあ。このハルキムラカミ氏の寄稿も柄谷行人的にはノーベル文学賞の1番人気にゐるこの作家の明らかに賞狙ひの言説に他ならない、だらう。アタシはこのハルキムラカミより同じ朝日新聞にやはり寄稿された橋本治ちゃんの「みんなの時代」(こちら)の方がずつとピンと来たし「これだよ!」と珍しく日本と政治を語る文章で前向きに思へたのだつた。

「国民」という括りが、日本人の中から遠くなっているように思う。竹島尖閣諸島の問題で、韓国や中国は「国民的な怒り」を爆発させているが、今の日本にそういうものはない。韓国や中国のやり方に対して怒る人はもちろんいるだろうけれど、多くの人は彼の国の反日行動を見て、「あの人たちはなんであんなに怒っているんだろう?」と、そのメンタリティを不思議に思うのではないだろうか。どうしてかと言えば、そのような行動をとる習慣も、そのようなことをしてしまうメンタリティも、日本人はいつの間にかなくしているからだ。だから、日本の「ナショナリスト」と言われるような人たちは、まず同朋である日本人の不甲斐なさに対して怒る。「弱腰外交」という非難はその一例で、「なんでそんなことになったんだ?」という怒りは、「平和ぼけ」という言葉を探り当てる。「平和ぼけ」と言われてしまえば確かにそうだが、それを言う前に考えるべきことがある。それは、いつの間にか日本人が「自分たちは日本国の国民だ」という考えをしなくなっていることである。日本人が日本人であることを意識するのは、外国に行って帰って来てラーメンを食った瞬間くらいのものになっているのかもしれない。日本人の多くは、「日本国民の一人」と思うよりも、「自分はみんなの中の一人だ」と思いたいのだろう。

と治ちゃん*1。アタシは自分を敢へて見つめてみれば日本「国民」なんて意識は微塵もなく香港でも東京でもバンコクでも深圳でも、自分がそこが心地よければ、それだけ。尖閣諸島竹島に対して「私たちの国土」なんて意識もない。治ちゃんは、この「みんな」感覚は政治のポピュリズムとの違ひもきちんと書いてゐる。ポピュリズムは政治家の大衆融合で民草が漠然とナショナリズムとは疎遠に「みんな」意識もつこととの違ひ。本来であれば戦後の日本は崇高なる憲法の文言を謡ひ、こんな漠然とした「なんだか日本っていゝよね」で「みんな」社会となれば良かつたわけで、非武装中立、冷戦も「なに、それ?」で日本人も在日の朝鮮人も中国人も、それにそんな日本が好きで日本に住みたい♡と思ふ人たちをどん/\受け入れて、そんな国の姿をconstitutionにしていければ良かつたのだらう。治ちゃんの発想も、晩期の黒澤明井上ひさしもみんなそんな感覚だつたはず。それが悲しいかな、小泉だ石原だ、政権交代に湧いたと思へばすぐに安倍だ橋下だ、と呆れるほど何も思想がないまゝ、で今日の日本。もう最後の選択がこの「みんなの時代」なのかしら。
▼新党「日本維新の会」衆参7議員で発足。これ以上増えませんやうにと祈つてゐたら今度は維新の会の次期衆院選公認候補選定がための公募委員会委員長に竹中平蔵就任の由。また一人、あたしの大嫌ひな御仁が維新の会に加はつた。徳島では安倍晋三の病気揶揄せし県議の呟板の書き込みに「公憤」による非難殺到し呟板閉鎖。原子力規制委員会はプレス発表から「赤旗」を政党機関紙として排除。本当に世の中が狂つてきた。かつての保守政治での革新に対するやうな余裕がない。怖い。

*1:この「みんな」はけしてワタナベキミの「みんなの党」とは関係ない。