富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

大澳に遊ぶ

fookpaktsuen2012-05-05

農暦四月十五日。立夏。朝イチで一仕事済ませZ嬢と中環からMTRで東涌。此処から船に乗る予定が仕事が多少長引いた所為で間に合わず路線バスで大澳。蓮香酒家に昼を飰す。女将がやたら愛想良く洗碗までされ恐縮するばかり。魚腩のスープが格別。まぁ数ヶ月に一度、もう十年も来てゐれば少しは熟客か、埋單のさいに素性尋ねられ、帳場の写真を見ると小学生だつた息子がももう十代後半、子どもが日本人の友だち連れてきたら日本語で何と挨拶すればいゝの?と女将。今日は大澳の舊警察署(1902年建造)が歴史的建築物保存で今年、Tai O Heritage Hotelこちら)に生まれ変はりRoyal Asiatic Societyの企画で見学ありそれに参加。まぁ頑張つて原型残し改修でバリアフリーなど学ぶべきところ多し。歴史的建物保存の非営利法人が政府から建物提供受けホテル運営し利益は地域社会に還元。で非宿泊者の見学も積極的に受け入れるが宿泊客には迷惑な話で関係者も月〜木の滞在をお勧めします、と。あちこちの猫を愛で漫ろ歩き。午後六時の船で東涌に戻る。突然、ラーメン食したく中環の「札幌」に醤油ラーメン。
▼ここ三週間の「週刊読書人」まとめ読み。吉本隆明追悼が主。大塚英志宮台真司の対談(四月六日号)が面白い。大塚は「近代の日本は公共性を作れなかった」が中流意識が暫定的な公共性になっていく可能性」をば蔑ろにして、戦後日本は「中流」といふリアルなコンセンサスがあればナショナリズムや「日本人」とか「絆」とか言はずともどうにかなつたのではないか、それを徹底して潰してしまつたが良質の戦後民主主義の存在は認めるべきだつた、それが吉本の「中流肯定論」であつて、戦後社会を肯定していく思想を結局、吉本隆明以外に持ち得なかつたのではないか、しかし、その大衆が大衆自身が大衆であることを否定して自己崩壊していくのが今なのだ、と大塚。そこで何ができるか、このへんが糸井重里の吉本贔屓につながりさう。翌週の大西巨人(93)による吉本隆明追悼も面白かつたが大西先生くらゐになると吉本・花田論争も「ある意味で言うと、いわば「同じ穴のむじな」である二人が、無駄にエネルギーを費やしているような感じが、私には思えた」となり吉本のそのアトの埴谷雄高との論争も「あまり興味がなかったな。あれは遊びみたいなものでね(笑)」と。さすが。
▼米村健司著『丸山眞男廣松渉 思想史における「事的世界観」の展開』(お茶の水書房)の書評、高橋一行(週刊読書人、四月六日号)から抜粋。
(廣松より) 物象化的錯認とは既存の社会秩序を前提とし、社会秩序の制度化過程を見失うことを意味する。
(丸山より) ナショナリズムを成立させる基盤として、国民国家のフィクション性が認識されず、忌避される傾向が挙げられる。そして国家が自然なもの、直接的なものとなり、日本的なものが生み出される。日本的なものは、物事を客観視する能力を失わせ、官製的な情念、人情を決定的なものにする。これらが、家族国家観、儒教的な家族主義の持つ側面である。この日本的なものは、清さ、明るさ、あるいは本物という真正性を、日本本来のものとして、つまり、一般的で、自然なものとして受け入れるのである。かくして国家は実体化され、諸個人は国民としてアイデンティファイされる。