富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

朝日も教育改革賛成のプロパガンダ新聞?

fookpaktsuen2012-02-05

農暦一月十四日。香港マラソン。昨秋はそれなりにジョギングしてゐて、このぶんなら来春は久々にフルマラソンもいゝかしら、と思つたが十二月に入つてからの仕事の忙しさ尋常に非ず多忙の上に体調芳しからず、でこれでハーフならだうにかなるが準備不足のまゝフルなど走つたら死ぬのではないか、と知己のM氏三月帰国前にエントリー失敗り出場権お譲り。かといつてマラソン当日に不貞寝決め込むほど鬱いでもをらず今日は珍しくご執務も不要で陋宅界隈小一時間走る。朝の九時すぎでもイースタンハイヱイは未明に開催された10kmレースの後片付けで通行禁止続き一般道は上り渋滞甚だし。午後に銅鑼湾ランニングクラブの香港マラソン打上げあり末席を汚す。完走の皆さんの晴れ/\した表情はちと羨ましい。盛会だつたがほとんど食べる機会逸し考へてみれば朝飯も抜きだつたのでとたんに空腹覚へZ嬢と餃子でも、とミニバスで湾仔に向かふが北方餃子皇が日曜午後の休憩?でミニバス降りずそのまゝミッドレベルに向かふが京香餃も休みだつたら場所的に途方に暮れるよね、と結局、香港大学近くの終点まで行つて……たか/\餃子のために銅鑼湾から、である、第二街の山東好客で餃子にありつく。折角こゝまで来たので食後に正街の源記で甜味。バス乗り継ぎ帰宅。『きだみのる―自由になるためのメソッド』(太田越知明著)読了。花村萬月『父の文章教室』(集英社新書)もさら/\と読了。
朝日新聞(オピニオン欄の「耕論」国際版では三日)で「首長は教育にどう関わるか」で3人の校長経験者に聞いてゐるが「今回の大阪府教育基本条例案は乱暴な提示の仕方ではありましたが(略)首長の教育政策への関与のあり方についての議論の起爆剤として意義があった」(百〼陰山)、「現在の日本の学校教育、とりわけ義務教育は、誰も責任をとらない無責任体制」(リクルート藤原=杉並の公立中で民間校長)と行政(首長)による公教育介入賛成派。京都「堀川の奇跡」の荒瀬(相撲取りに非ず)は「いま大阪では、首長の強いリーダーシップによるトップダウン型の教育改革が議論されているようです。ぜひ教委と学校間で活発な議論ができるものであってほしい。もし議論できない雰囲気になるのなら学校はよくなっていきません」と一見、理想論だが大阪の学校が橋下相手に議論できるような立場のわけないだろうに。これぢゃ朝日も改革賛成のプロパガンダ新聞だが、地味に教育欄では愛知の犬山市教育長だつた瀬見井久氏の貴重は発言も掲載してゐる。

教育委員会制度は意外なほど地方分権の精神で貫かれているので、主体性さえあれば相当のことができるんです。そもそも戦前の軍国主義教育の反省から国家権力の介入を防ぐために市町村に責任と権限を持たせている。(教委が形骸化しているのは)首長が「教育とはいかにあるべきか」という見識をもった人を教育委員に選んでいないから。すべての子の学びを保障することが義務教育の目的。学校現場に競争主義を持ち込もうとする大阪の教育基本条例の考え方とは対極。民意とは結局、その時代時代の流行です。正しいかどうかは別。いくら時代が変わろうとも、子どもの人格を育むことが不易の目標であって教育は民意で左右されれるべきではない。

と。公教育からいかに民意だの政治性を排除するか。と言ひつゝ近代の公教育が元々「<国民>の育成」で始まつてゐるから(佐藤優氏の極論「いざというとき国家のために死んでくれる国民」の育成が、それ)、どうしてもナショナリズム的な政治性が絡むのは致し方ないのだが樋口陽一先生や萱野稔人君の指摘するやうに普遍的な意味でのナショナリズムは必要(悪?)なわけで近代の公教育もさういふ意味では「近代人の育成」として存在すべき。この連載(大阪府教育条例、続・私はこう考える)では妹尾河童さんも大阪の改革の怖さを憂ひてゐるが(最終回)現実主義者?の橋下にはさういふ理念はわかるまひ。

父の文章教室 (集英社新書)

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