富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

賽徳克巴莱 彩虹橋とマーラーの5番

fookpaktsuen2011-12-02

陰暦十一月初八。晴。気温摂氏十四度だかで十分に寒い。早晩にZ嬢と映画「賽徳克巴莱」の後編・彩虹橋を見る。前編で霧社事件の部分は終はつてをり後半は事件後のさまざまな人間模様のやうなもの勝手に想像してゐたがさにあらず日本軍による鎮圧目指す反撃に抗し果敢に戦ひ悲愴にも命落としてゆくセデック族の、この死闘が延々と、本当に延々と続く作品であつた。マヘボ社の女性たちの山中での集団自殺が何とも惨い。史実をもとにかなり脚色もあり。セデック族の「暴徒」が数百人単位で死亡してゐるが、この戦闘で日本軍の死者はわずか30名といはれるが映画の中では前編から下手したら千名と思へるほど日本軍の兵士が殺されてゐるやうに見える。それによつて相対的にモーナルダオらの果敢ぶりが強調されるのだが。アタシらは台湾を旅行中に魯山温泉で早朝に川上に歩き、まるで誘なはれたかのやうにモーナルダオ終焉の地に辿り着いたことあり。スクリーンでは死闘続ける彼らが元々の役者ではなく、多くの重要な役が原住民なかから選ばれてゐるのことで役者を超えた演技の強烈な印象が残る。帰宅して残り物のチーズや温野菜で夕餉。RTHKが文化中心から香港フィルの生中継。指揮者はOsmo VänskäでPaul Lewisを招きモーツァルトのピアノ協奏曲23番とマーラーの5番。前半のモーツァルトは良かつたがマーラー5は香港フィルのあの金管であるから出だしからいけない。このやうな感情の入る曲はこのオケは指揮者が誰であれ本当に苦手。曲は今日の映画のあとで本当に聴きたい曲なのだけれど。
浄瑠璃本研究の畏友K君が呟板に

現代の文楽にとって、大序から上演可能な、規格正しい「通し」の演目は実は多くない。稀有な財産を切り売りして、見取に無駄遣いしてはいけない。「見取」に取り上げるのは、通しでは伝承されなかった、一幕物(付け物)の上演に限定するべし。貴重な上演時間を、昭和期の新作に割く余裕はないはづ。

と書かれてゐる。これは文楽に限らず大切な指摘。
▼昨日の朝日で佐伯啓思「民主主義と独裁」興味深く読む。小泉と橋下の大衆扇動のデマゴーグ的なやり方は似てはゐるが小泉が「郵政民営化」という目的(って政権の目的がこれが目玉ってのがあまりに陳腐だが)がはっきりしてゐたのに対して橋下は何をやりたいのか、が見えない、権力そのものが自己目的化してゐるのではないか、こちらのほうが「危険」と佐伯氏。民主主義が進み、より民意を反映させようとすればするほど政治は不安定になり、強いていへば橋下減少は必然で「むしろ民主主義が橋下さんを生み出した」と。民主主義は放っておけば衆愚政治に行き着き「その危険をいかに防ぐか」が古代希臘の時代から政治の中心的なテーマ。民意を直接反映させない仕組みの組み込み。政党が利害を掬ひ上げ内閣に持ち上げ国会も二院制は民意反映される下院(衆議院)に上院(貴族院参議院)を置く。行政を選挙で選ばれぬ官僚に委ねることで行政の安定を求める。かうした非民主的な装置の取り込みで実は民主主義が成立する。もちろん官僚制にも問題はあるが安易なバッシングあるばかりで「政治が民意に極端に左右されないようにする仕組みが失われ、平板な民主主義ができあがってしまった」とする。そこに現れたのが橋下。このまヽの状態では世界的にも「独裁」になる恐れがあると佐伯先生は警告する。そこで「民主主義は不安定で、危険をはらんでいることを前提に、どうすれば民主主義をなんとか維持していけるかを考えなくてはいけない」わけで政治にあまりに性急な問題解決を期待しないこと、と。「独裁を生み出すものが民主主義だと国民が気づくかどうかにかかっています」とさすが<保守>の眼力をば見せていたヾいた感あり。