富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

チョートク先生から南原企画

fookpaktsuen2011-09-29

九月廿九日(木)昨晩は珍しくの深酒で深夜一時に寝ても今朝、五時前には起きてしまふ。さすがに一寸、酒が残つてゐるな、と思つたが神様はアタシのために台風警報8発令、で本日お休み。それでも二度寝できぬ老人性不幸。台風は海南島直撃。香港から400km彼方。東京から見て大阪に台風がある距離。夜明け。さすがに雲の流れ勢いあり。風力が17.2m/sでこの措置。日本ならいつも通りで出勤、通学だろう。ちなみに17.2m/sを越えると日本の気象庁は熱帯性低気圧を台風とする……があくまで最大瞬間風速。15m/s以上で25m/s以下の風速では「強風」扱い。25m/s以上でも「暴風域」というだけで気象庁は警戒を呼びかけるだけ。判断はどうぞ皆さんで、と……。学校は(一般的に)暴風警報で休校措置。暴風警報は「暴風により重大な災害が発生するおそれがある」ときに発令。いい加減。災害でも「重大な」なのね。日本がどれだけ非安全国家か、といふこと。それに比べ香港は陋宅の窓から外を眺めてもタクシー数台が虎視眈々と客待ちしてゐるだけで17.2m/sの強風のなか傘をさして出歩くキチガイもをらず自動車も走つてゐない。防災とはかういふもの。寺田寅彦先生が香港を見たら感動するだらう。朝から昨夕購入のピンクフロイドの箱入りをば早速、iTunesに落とし込み。従前から所有のCDは売り払ふつもりでゐたが明らかに違ふCD群れだと思ふと……これでほぼ全ての作品がLP、CDとこの箱入りリマスタリング盤に揃ふわけか。ちなみに「狂気」はこの再マスタリング盤がオリコンで10位に入つてゐる由。午前十時すぎに全曲の落とし込み終はる。もう今日はこれで仕事納めの感あり。風でどん/\流れてゆく雲を眺めつ聴くピンクフロイド朝日ジャーナルの増刊「原発の人間」続き読む。やはり石原克彦氏の「原発震災」に尽きる。8號警報のまゝ今夕の打合せの予定も飛んだので記念にハイボールをやる。樋口陽一先生の「いま、憲法は「時代遅れ」か」、これも途中になつてゐたのを読了。すつかり一日家に缶詰めで野菜を主に夕餉。豪州はClonakilla O'riada Shiraz 07年を飲む。いままで味わつたことのない不思議な味でございました。
▼チョートク先生にはブログでアタシの拙文の日剰を紹介していたゞいてゐるが、そのお勧めリンクのなかに南原四郎といふ人の日記あり。さすがにアタシも南原四郎といふ名前からすぐに南原企画が思ひつかず。その代表が四郎氏。若いころにアタシはさすがにAllanなる耽美派雑誌は趣味違ひを感じたが南原企画はこれに続き「月光」(ルナ)といふ雑誌を世に出し、これが耽美派から一歩踏み込んで足穂、乱歩といつたところでアタシの琴線に触れ面白く読み仙台の八重洲書房で購つた創刊号から廃刊になるまで、まだ実家の書庫に全册が保管してあるほど。新宿をふら/\と徘徊してゐたら偶然に南原企画の事務所を見つけたこともあり。まさか、あの南原企画とチョートク先生の縁でまた出会ふとは……。
樋口陽一先生の「いま、憲法は「時代遅れ」か」について。憲法について大切なことを解り易く、だが樋口先生の著作のなかでもまるで集大成のやうに大切なことを「なぜ大切なのか?」「なにが誤解されてゐるのか」あまりに明確に書かれてをり、まさに弁明(アポロギア)。

  • 政治不信を憂ひ「自民党をぶっ壊す」「官僚支配の打破」「政権交代」「政治を国民の手に」などワンフレーズなポピュリズムが跋扈するが実はさうした改革こそが結果的に政治不信を招いてゐること。衆参両院の「ねじれ」が批難されるが両院が一党にずつと独占されてゐたことのほうがよっぽど「ねじれ」であること。
  • 1789年のフランスの「人権宣言」は正確には「人及び市民の諸権利の宣言」で、人(オム)が生まれながらにもつべき権利、自由など「人権」にあたるものが一方にあり、他方には市民(シトワイヤン)がある。後者は公に対する私ではなく社会契約論的に自然(state of nature)から国家(市民政治集団的なcivil or political society)が出来たなかで選挙権のやうな国家に属する個人の諸権利が生まれた。さうなると人と市民は水と油のやうだがルソーの言葉を借りれば「シトワイヤンであつてこそオムたり得る」わけ。よく政治家が「市民党」や「市民の見方」なんて宣ひ「私たち市民は……」と言ひ、国民の政治離れ、国家への不信を語るとき「市民」が用ひられるが本来、市民あつてのその高度な装置としての国家。国家なき市民はあり得るのか、と。

現状では「国家」以上の政治権力装置は存在しないわけで(もちろんEUのやうな国家連合体もあるが国家の拡大範疇であらう)少なくても問題はあつても他よりはまだマシな創造物として国家をどうにか運用しなければならない、といふのが樋口先生の国家主義者たるべきところ。憲法については「押しつけ」といはれるが、原因がどうであれ形としてはみずからが始めた戦争に負ける際に「自滅する自由」があつた!のに、それを捨てポツダム宣言を受け入れたのだから、それは大日本帝国にとつての合意であり「敗戦によつて押し付けられた」などといふ言ひ訳が通用するか、と樋口先生の大見得。で九条である。そして二項である。戦力をもたず交戦権を認めない。改憲派は国防を憂ひでみせる。が樋口先生ほどの戦後民主主義の精神はかう反論する。(丸腰平和論といはれるが)どんな努力をしても絶対に他国に攻められないといふ論証など当然できない。それでも「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と平和を保持しようと決意した」(憲法前文)わけで、当初から「絶対に安全だという論証ができないことをあえて国是としている」、それほどの決心がこの九条に込められてゐる、と。陛下もきつと同じお気持ちに違ひない。