富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

樋口陽一先生の憲法に関する弁明

fookpaktsuen2011-08-08

陰暦七月初九。立秋。朝三時半に起きてしまつて昨晩は「君が代の履歴書」読了で十時半くらゐまでは記憶あるのだが五時間も寝てゐないのだが眠れない。年寄りはまつたく厭だねぇ。風は涼しく夜空にくれいな雲が浮かんでゐたが途端に暗雲走り寄り雨模様。七月の雨は織姫と彦星の流す洒涙雨ともいはれるが雷鳴も轟き大雨。夜明け前に歇む。株や相場の金融市場に関係ないアタシは普通の月曜日。今日は樋口陽一先生の「いま、憲法は「時代遅れ」か」(平凡社)を三分の一ほど読む。
樋口陽一先生曰く、今では憲法立憲主義では国民の意思によつて権力を縛るためのもの、なんて語ると人々はそれを新鮮に感じる、と。今の人々に理解が難しいのは「国家」がフィクションである、といふこと。明治に伊藤博文とかはちゃんとわかつてゐたのだが。<国家を愛する>といふことも自分たち諸個人が造つたもののはずだから自分たちのものとして受け止め、それを「嫌ひ」とはいへないでせう、国民主権で自分たちが責任者なのだから……と、この感覚が普遍的な「愛国」なのだが「美しい日本」の国粋さんたちには民族主義、感情でしか愛国が理解できない。その国家は人為、人造だからこそ何かシンボルが必要なわけで、それが仏蘭西なら三色旗、米国なら星条旗でありパリ祭や独立記念日がお祭りとなる。日本にとつてさうした国家的象徴がないものだから宗教も一神教でない八百万の神ではだうしようもなく、国家統合の根拠がないものだから倒幕勢力は天皇を担ぎ新国家の象徴にしたフィクション性(これを当時の伊藤博文とかはわかつてゐただらう、と樋口先生)、それが明治20年くらゐから、あたかも「日本」なる国家がずつと存在してゐたかのやうに社会契約論にはそぐはない、民族の日本なる国家神話が生まれ人々はそれに安住する。問題は日本だけに限らず近代国家主義の本元である西欧でも民族主義の見直しや宗教の存在が大きくなるなど近代の普遍的な国家主義は21世紀になつて、いろいろ不安定。……と以上が第2章まで。このあと、グローバリゼーションの時代にあつて自由放任と権力による国民生活の保護、司法の「規制」に関する二重思考(心の自由と資本経済活動の自由)、自由とタブー、自己決定と人間の尊重……といつた話が続く。この著作は樋口先生自身「弁明」と仰つてゐるが弁明(アポロギア)は自分の立場、考えを明確に述べ真理を明らかにすること、としての弁明。樋口先生の著作のなかではかなり門外漢、ふつうの教養レベルでわかり易い記述でこの本はかなりお勧め。日本を代表する憲法学者の樋口先生が法学が人々から乖離してしまつたことを反省し、普遍的憲法の理想を敢へてまたこの時代に流布しよう、といふ高校生でも読める、いや、高校生くらゐで読んで真っ当な近代人になつてもらひたい一冊。
▼今日の天声人語 http://bit.ly/qzNZMt どうしちまつたんですかね、ひじょうに格調高く、見事にまとまつてゐます。書き手が変はつた?
▼昨日気温摂氏35度で今日のSCMPに“Summer heat means big bills for cage dwellers” http://bit.ly/pgPdoH の記事。籠屋の住民に調査で夏の電気代の平均がHK$407で福​祉団体は月HK$500の補填を提案。なのに冷房使はぬあたしは​陋宅七月の電気料金HK$374也。籠屋で冬でもHK$268だ​といふのだから冷房だけぢゃなくて電気の使ひすぎもあるはず。
▼「韓流」もて囃すとテレビ局批難され韓国の国家的な戦略などと木村太郎のやうなダメ親父が煽り何だか相変はらずのバカ/\しさ。だから最初からテレビなんか見ないのが正解。芸能界に異邦人多いのは珍しからず日本の演歌とて在日の功績なくして語れず。電通の策略などといはれるが広告代理店など儲かれば韓国人でも中国人でも宇宙人でも連れてきて仕掛けるのは当然。日本人では日本で当たり前すぎるから珍しいものを見せる。これは芸能でけして珍しからぬこと。それにしても韓流ブームで国粋さんたちからスケープゴートにされるのが我らが愛国民族主義たる産経グループのフジテレビといふのがいやはやなんとも……。