富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2010-01-02

一月二日(土)何をするでもなくSCMP紙の土曜はSudokuが週に一度の★五つで始めてみたが、こんなことで一日が終はりさうな気配。でZ嬢と東龍洲にでも渡つてみようか、とAldrich Bay(こゝは漢字では愛秩序湾なんて下品な名で街路も愛勤道だの愛禮道だの下品極まりなし)の街渡に出たが今日は土曜=平日を祝日と勘違ひして渡し船の時間間違へ鯉景湾から三家村に渡る。鯉魚門の海鮮街を潜り水母宮の廟の先、苫屋並ぶ辺鄙な村の先の海角、かつて水軍の砦か先の大戦の砲台か、の跡地。持参の鮭のにぎり飯頬張る。海を眺めぼんやり。三家村まで戻り船で香島に戻る。ジムで一風呂浴び帰宅してもまだ午後遅く。読書。晩に豚肉と韮を大根卸しの鍋で煮る。NHKのドラマ「坂の上の雲」第五話を録画で見る。日本は明治のこの時期、先人たちが築いた大いなる財産をその後、粉々にしてしまつたのである……と事実だらうが、この司馬ドラマを眺めてゐても日本は強くなどなりもせず「痛快」で終はつてしまふのだらう。深更まで資料整理。読書。夜半に雨となる。
▼SCMP紙が“Deng kept his HK options open in 1979”と報道。1982年に中英合意で1997年の香港返還決定したが一国二制度は1979年に中国を公式に初訪問のMurray MacLehose香港総督との会見で鄧小平が“China "might" take over Hong Kong by 1997”だが“to allow present realities to remain”と語つたさうで、それが英国公文書館の30年規定でこのたび解禁となつたMacLehose総督の倫敦への報告文書にあつた由。鄧小平がMacLehose総督對手に実質的に語つたところが実に興味深い。まるで鄧小平の復活と近代化路線に合はせるやうに香港ではMacLehose総督が新界のニュータウン建設し新界と九龍、香港を結ぶ地下鉄建設着工し英国側にとつて見れば九龍と新界を切り離せぬインフラ整備を英国側が竣工したことの深い意味。その政策介入を実施したのがMacLehose総督なのだから鄧小平もきちんと礼を尽くしたのも明白。大人やなぁ。
▼久が原の俳人T君が皇后様の「夏草の」を名歌とした上で和歌、短歌は他の人間に自在に成り替はれる点を上げて、皇后様のこの御歌も呼び掛ける形態ながら半ば自ら「云ひし人」になつてしまつてゐる、と指摘。なるほど慥かにねぇ。
▼劉曉波といふと〇八憲章ばかり注目されるが練乙錚氏が信報の連載(十二月廿九日)で綴るに、〇八憲章と、それまでの六篇の文章が「罪証」となつてをり、その六篇をもとに劉曉波の指摘の慥かさを評す。大約すると、贈収賄は中国の行政において深刻な問題となつてゐるが現行の党政府の幹部制で贈賄が解消されるはずもなく、むしろ腐敗防止できぬことで中共一党独裁の政権が脆くなる点を積極的にとらへることも可能なこと。また2007年の山西省で、不法に十代前半の少年らを人さらひブローカーから買ひ集め炭坑で強制労働させてゐたゐた「黒磚窰事件」が注目されたが実はこの「黒磚窰」は以前から問題視されてをり良心的な地方幹部から中央に報告もされてゐたがきちんとした対策が取られてをらず07年の山西省での「黒磚窰」が問題になると温首相が対処する姿ばかりが表われ神話のやうな扱ひだが具体的に誰か責任をとつたのか、といふ指摘。この山西省でも地元の小役人は厳重警告を受けただけで、毒ミルク事件で罷免された原質檢總局の局長もすでに全国「掃黃打非」工作組の副組長として復帰の由。中共の一党制ゆゑ責任の所在が曖昧となり政治力のある者の「人治」となる事実。また練乙錚が指摘するのは劉曉波は非暴力的で非急進的で緩やかな社会改革を主張してをり国家顛覆煽動といつた罪状が不当であることを指摘。それの許容もされぬ硬直化した絶対権力社会であるから最近、各地で住民の集団蜂起的な対地方政府や警察への抗議活動(一揆)が起きる。国家が劉曉波に暴力を振るふとはまことにもつて遺憾、と。

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