富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2009-09-27

九月二十七日(日)午前中、書斎にて机に凭り書類整理、つて麻生三世の休日の帝国ホテル客室での書類整理ももはや懐かしいかぎり。中共の建国六十周年は当然、十月朔日の天安門前広場が骨頂だが(骨頂つて「愚の」だの「野暮の」だの多くは悪い意味で「真骨頂」くらひが良い意味なのね)各省など地方組織もそれに倣ひ国慶式典開催で香港も中国の辺疆の郷鎮の一つとして国慶の催事が先週あたりからやたらと続く。今日の朝は銅鑼湾からEastern Highwayを閉鎖して千萬行つて実際には一万数千人ださうだが国慶の歩行企劃あり、香島のHennessy Rdの目抜き通りでも祝賀パレードあり。北京から見れば南蛮辺境の郷鎮で、その村落単位だらうが東区、西貢区だの役場が右に倣へで祝賀行事。今日の午後は湾仔区のそれがあり湾仔といへば香港紀念返還式典の香港会議展覧中心で、其処での「湾仔区慶祝六十周年海陸空大匯演」なる大それた行事を寄る機会あり眺める。陸海空大匯演と名前は勇ましく、まるで人民解放軍と空軍、海軍の一大イベントのやうだが「陸」は地元の学校や武術、素人手品、三流歌手の舞台演目で、「空」は香港特区旗を吊つた香港特区政府航空隊のヘリコプターが飛び去るだけ、で「海」は海上消防隊の船舶が放水。慥かに陸海空だが(笑)。地方の役場が盲目的に懸命に国慶を祝ふ懸命さに涙す。これでまだ「市民に一緒に祝ひませう」ならまだしもテロ対策か?、いや反愛国的な民主派や今日も近くで布教活動中の法輪功の諸君への対策なのかしら、この湾仔区の祝賀会場は屋外でも鉄柵で関係者以外立ち入り禁止、で一般市民は鉄柵の外で遠く眺めるばかり。そのタテマエぶり、たゞ/\嗤ふばかり。維園阿伯が「なぜ祝賀の市民が中に入れぬ!」と怒るも尤も。帰宅して豚肉の韮鍋食す。少し読書して晩十時過ぎ臥床。
▼米国での外交デビュー果たした鳩山三世が大相撲千秋楽で国技館もデビュー。小泉三世ほどの脚光浴びなかつたがまづまづ。それでも大相撲でいちじはヒールぶりが話題となつた朝青龍が「それでもやつぱり大横綱」で復活なら優勝の祝賀は鳩山君よりむしろ小沢一郎君のはうが適役だつたのでは。
朝日新聞で北京より市川速水氏が「閉ざゝれた建国60年式典」を書かれてゐる。冒頭で「力づくの強引が祝典」と一刀両断。朝日の北京支局が北京飯店にあり、そこでの取材規制の厳しさがひしひし。北京飯店は西南の高層に部屋をとると眼下に長安街が走り天安門広場から故宮、その向かうに実際に内部は窺へないが中南海がある。市川氏はウルムチで騒乱の「きつかけとされた」注射針刺し事件のウイグル人青年(無罪を主張)の判決を傍聴してゐる。建国六十周年を無事に終へるためのテロ警戒。「『10•1』に向かう大きな流れ。党や政府は突然通達を出すが、その議論の過程も分からず、異論を唱える對手も分からない。しかし、いつの間にか社会の雰囲気が一つの方向に醸成される」日々。市川氏はネット上に現れ当局に遮断された党の元老の口述と言はれる指摘を紹介する。「共産党は政党の登録もしていないし政党法すらない」「党の各部署はいまだに看板も掲げておない」「革命を目的とした60年前の秘密主義は捨て、政権党として透明化を図り政治倫理を確立すべきだ」と。市川氏は「『輝かしい60年』の連呼に外国人として干渉する気はない。ただ、市民まで不審者扱いし、異物を徹底的に排除する厳戒下の祝典とは何だろうか。正直、祝う気持ちより悲しみが先に立つ」と言ふ。御意。
天安門前広場で国慶節の祭典。天安門の楼上に幹部が居並び広大な天安門前広場に数十万の群衆が鳩まり……と印象が強烈なのは1949年の建国での毛澤東の「中華人民站起来了!」の宣言だから、なのだが「その当時は天安門前広場はまだなかつた」。当時は広場南側の正陽門まで長細い空間で映画『ラストエンペラー』を見れば紫禁城前の狭さはイメージ出来よう。役所や英国大使館などを取払ひ今の規模の天安門広場が出来たのは1954年。広場の周囲に人民大会堂や革命の正史をば語る歴史館を配置し人民英雄記念碑を建てたが、その記念碑のまわりで1976年の天安門事件が起き同年の毛澤東の逝去で紀念堂も建てたが1989年には再び天安門事件が起きるのだから。原武史氏に「皇居前広場」といふ興味深い研究があるが「天安門前広場」も更に凄みあり。たかだか半世紀余しか存在せぬ天安門前広場がまるで中国悠久の歴史の現場の一つのやうに思はれることの奇妙さよ。

富柏村サイト www.fookpaktsuen.com
富柏村写真画像 www.flickr.com/photos/48431806@N00/