富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2009-07-02

七月二日(木)晴。
▼Green Dam-Youth Escortの中国でのPCへのインストール延期につき今日のNY Timesは“Unusually unified protest appears to have forced a bereaucratic retreat”と報じる。中国政府にしてみれば現時点で海外からの抗議は「大国として」内政干渉するな、と言ひ放てるにせよ予想以上に大きな国内の水面下での反政府感情の鬱積を考へれば無理に言論管制のソフト導入での効果とデメリットで割りが合はず、実施断念だらう。ネットが中国での利用者三億人と言はれるが、中国政府にとつて最大の脅威になつてゐようとは。
▼昨日の市民デモについて昨日の信報を日遅れで讀むと「なるほど」と首肯く指摘あり。先づ社説が、七月朔日は2005年の董建華失脚で輿論の不機嫌が緩和され「上街」(街に出る)は特定の強い要求や問題がないまゝ恒例行事として市民は様々な要求を主張する場とし、民主派はみづからの威勢誇示の場とし、香港政府は50万人デモの後遺症で短期的な政策の提示はするが長期的計画を失ひ、北京中央は市民デモは不愉快ながらも香港市民の民主化要求の度合ひを知るバロメーターにしてゐよう、と。一国両制で以て「香港が中国でない」と主張しても実際には香港が中国の経済体系の中に入つてゐるのだから、経済に関していへば香港は大陸の財政金融政策を上手く扱ひ香港が「中国の国家経済と金融の安全に関する責任を負ふやうな役割を担はう」といふくらゐの気がなければダメだらう、と提言。御意。また同日同紙に香港大学民研の鐘庭耀先生がこの市民デモを見事に分析。毎年異なつた主張で市民デモが続くが特徴は、北京中央の胡錦濤主席や温家寶首相など指導者に対する評価は特区行政長官のそれを上回つてをり「71デモに関していへば」これが反共デモではないこと。そして近年のデモ参加者の7〜8割が2003年の50万人デモの参加者で07年の調査ではデモ参加者の4割が前月の六四追悼集会も参加。つまり「北京中央の対香港政策については正当に評価しつゝ六四の天安門事件については党政府としての歴史的再評価を求め香港特区政府の様々な愚策に憤り行政長官と立法議会選挙では普選実施を求め年に数回のデモや追悼集会には積極的に参加する」市民像が浮かぶだらう。
▼米高積遜さんといへば“Thriller”と“Off the Wall”の記録的ヒットだがアタシらの世代にはMJより、殊にまだ“Off the Wall”の時には天才的な、だがまだ/\未熟なMJのアルバムを見事に完成させたクインシー=ジョーンズの方が「さすが」と映り、“Thriller”で「またQJよりMJが全面に出たよね」と語り、MJがなんだか怪しげになり始めQJと袂を分つたと聞いた時「さもありなむ」で終はつたもの。Motownレーベルの金の卵も言つちや悪いが「所詮、ソウルとブラックコンテンポラリー」の範疇に置かれさうなものをポップスの最潮流にまで押し上げたのはQJあつてのこと。そのMJとは距離を置いたQJがMJの急逝に「老いた身は彼の葬儀に参列も能はず」と、これも「さもありなむ」なこと。だが羅府時報にはQJ氏がMJ逝去に手記を発表と聞きそれを讀む。"We made history together" by Quincy Jones, LA Times, 30 June 09 - 天才が12歳の時に出会つたQJは1978年に"The Wiz"(オズの魔法使ひ)の黒人オールキャストでの映画化にMJが出演し、そこで再開を果たすが、この手記によればマイケルが「ソクラテス」を「ソー・クレイテス」と発音してゐたのでそれをQJが正すと、三度目の指摘にMJが
He looked at me with these big wide eyes and said, "Really?" and it was at that moment that I said, "Michael, I'd like to produce your album." It was that wonderment that I saw in his eyes that locked me in.
と、これが「プラトン」ぢやなかつただけまだしも、かしら、の師弟愛。でQJがMJのアルバム制作に関はることに。Epicからの初ソロアルバムだが偶然のことだがMJの死にあたり債務など最後まで絡んだのがSony ATV Musicであることも因縁めいたものあり。この手記、Off the Wallの成功の純粋さに対して“Thriller”での(結果的に前作上回るヒットとなつたが)産みの苦しみの言及も興味深いところ。このQJとMJの成功をカウント=ベイシーが「俺がデューク(エリントン)とですら為し得なかつたこと」と讃する下りなんざ、なんとも。でそれ以降のMJについてQJはたゞ一言
There will be a lot written about what came next in Michael's life, but for me all of that is just noise.
と言ひ切るのだつた。
▼MJよかZ嬢やアタシにはPina Bauschの方が何度か舞台を観てゐるだけに感慨深いものあり。癌で享年68歳。劉健威兄の追悼の随筆(翌三日の信報)によればPB女史はかなりの愛煙家で昨年、彼女の舞蹈団が香港藝術祭に参加の際も女史来られず、その理由として十数時間の飛行機での移動で禁煙に耐へられない、と聞いた由。
▼弔報ばかりだが蘋果日報に「真正「蝴蝶君」時佩璞逝世」とあり。ジョン=ローンといへば80年代に“Year of the Dragon”で注目され“The Last Emperor”でかなり話題となつたが90年代にはひると柳町光男の『チャイナ・シャドー』から凋落甚だし。1993年に“M. Butterfly”なる仏蘭西外交官に恋着する京劇の女形描いた映画でそのヒロイン?の女形役に。話題にはなつたがジョン=ローン自身の復活には至らず。であの映画で語られる、その実在の女形の役者が時佩璞。一昨日、巴里で逝去、享年70歳の由。京劇でしかも女形文革の最中なら批難されぬはずもなき時佩璞。在北京の法蘭西大使館の外交官に「女として」近づき相思相愛になつたのが1964年。「女性と思はせて愛人関係に持ち込み(略)ほれた弱みにつけ込み、外交機密文書を流させ続けた」(朝日新聞)とも、実は時佩璞の素直な恋心に相思相愛、北京政府の諜報機関がこの事実を掴み「彼女を法蘭西に連れて帰りたければ」と法外交官に交換条件として法政府の外交情報の提供求め、それに応じ……とも(蘋果日報)。いづれにせよ事実は小説より奇なり。慥かなことは後日談の、1983年になり法政府の安全局が二人を逮捕。その時に時佩璞が実は男性、と知らされた元外交官。86年に時佩璞の有罪が決定し禁錮六年がミッテラン大統領の恩赦で翌年から時佩璞は巴里で静かに余生送つた由。(以下、翌三日の追記)NY Times(Shi Pei Pu, Singer, Spy and ‘M. Butterfly,’ Dies at 70)は元愛人の死に対してのこの元外交官の「もう40年も前のこと。彼は私に対して愚かなことをいくつもしでかしてくれた。やつと、もうゲームは終はりで私はやうやく解放された」といふコメントを載せる。NT Timesによればこの外交官は二十歳の時に開館したばかりの北京の法蘭西大使館に会計官として採用され、外交官の夫人たちに中国語を教へてゐた時佩璞と遭遇。男装?の時佩璞は「自分は本当は女だが息子を欲した父により男子として育てられ」と出自を語り、学生の頃に同性の同級生と僅かな秘事あつただけの若い外交官は時佩璞の話を信じて對手を女性として付き合つたが性交渉も暗闇でさつさと密かに済まされ時佩璞が男性とは気づかず、といふ。で、その後この外交官のもとに時佩璞が四歳になる子を連れて現れ「あなたの子よ」と。で外交官はそれを信じ、当時は同性の伴侶と暮してゐた巴里に時佩璞と子を同居させたさうな。でその直後に二人は逮捕され時佩璞は官憲に自らは女だ、と説き、その後の調べで刑務所の医者に對手(外交官)にどう自分が女だと信じ込ませたか、と房事の秘技?をば見せたとは江戸の陰間崩れの夜鷹の如し。時佩璞もさることながら、この外交官も對手が殿か姫かを問はず思慕の遍歴も旺か、で八犬伝ならまるで犬坂毛野と玉梓が怨霊の妖術合戦のやう。

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