富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

一月朔日(木)新暦元旦。郷里の母と妹に電話一本。毎年香港にゐれば今日は長州島の10kmレースで風光明媚で風景の多く変はる島の走りは楽しく今年も申し込んではゐたが腰痛では走るわけにもいかず、せめて応援だけでも(でレース後の長州島での田舎料理)と思つたがZ嬢もイマイチで島に渡らず。陋宅での年籠もり続く。頂いた凸版印刷の堅山南風のカレンダー(株主優待のものの由)が元旦まで捲るも我慢してゐたが捲つてみれば実に見事。独り切り餅を焼き食す。屠蘇酒を汲む。午後、近藤紘一『サイゴンのいちばん長い日』読了。

サイゴンのいちばん長い日 (文春文庫 (269‐3))

サイゴンのいちばん長い日 (文春文庫 (269‐3))

この文庫本が文春から出た廿数年前のおそらく初版で読んだ当時に対して自分が観光旅行でもサイゴンを歩いた後では「あゝ、此処が彼処」と思ふと三十年前と一つも変はりがない。近藤さんらが籠城の当時の南ベトナム日本大使館(現ホーチミン総領事館)もそのまゝ。強ひて言へば市街の鉄道站が移転したくらいで、で場面が実に現実的で、ただ香港からサイゴンを見る目は明らかに仙台でこれを読んだ当時から比べれば異質でも異境でもなく、隣町の如し。出掛けもせず続けて開高健ベトナム戦記』読む。
ベトナム戦記 (朝日文庫)

ベトナム戦記 (朝日文庫)

近藤紘一の遭遇したサイゴン陥落からおよそ10年前のサイゴンの話。さすがにアタシもこの1964年(昭和39)の週刊朝日に連載されたルポは当時読んでをらず。もう「昨年」だが昨夏にホーチミン市マジェスティックホテルに泊まり、ここが近藤紘一だの開高健が当時、と思ひおこしてゐたもの。で開高健の語るベトナムである。北との境界のベン
ハイ河に近き古都フエで開高に知人の大学教授夫人が語る……
ここでは小さな泥棒が遊んでいる。あそこでは人が死んでいる。私たちはボンヤリと見物している。
この言葉こそ我々の立場そのもの。この戦記を読んで知つたのは、開高健の共和国軍といふ名の米軍に従軍しての対ベトコンとの戦ひの中でジャングルの中で茫然自失の開高健をカメラマンの秋元キャパが撮つた有名な一枚がある。それを見た時にアタシは従軍してもこんなにメタボ?と思つたのだが、かうして従軍記読んでみればベトコンの襲撃受けた一団の中で開高健
二〇〇人の第一大隊はあちらこちらの木の根もとに放心している兵士を数えてみると、たった十七人になってしまった。私はしゃがんだまま小便を一回やり、バグを整理した。にぎりめし半個。『征露丸』。クロロマイセチン。防虫薬。ライター油。航空券。ドルなどポケットというポケットにつめこみ、さいごに日の丸の旗をねぢこんだ。
といふ、さういふ状況で秋元キャパと開高健は「私たちはたがいの写真をとりあった」のがそれ。そりや体格の良い開高が余計に太つて見えるはず。ベトナム共和国軍(南ベトナム)の少尉が開高健の問ひにベトコンの指導者の名前(グェン=フウ=トゥ議長)すら知らず民族解放戦線(NLF)といふベトコンの正式名称すら知らず、さういふ敵のことすら知らぬ状況に開高健は「この戦争は政府側の負けだ。ハツキリさうきまつた。寝たはうがよささうだ」と戦地の究極の状況で開高健をさう達観させるこの場面が圧巻。その三日後に開高健マジェスティックホテルの103号室に戻る。思はず読み耽けり夕方に至る。それにしても開高健のこだはり……ライター、パイプ、ナイフ、万年筆、ジーンズ、帽子……といつた小物、つてほんと何処かの誰かがまるでこれを追従だね。晩に御節菜食し雑煮。NHKも海外に維納フィルの新年コンサートの番組は流さずバレンボイムを逸す。澤田教一ベトナム写真集『泥まみれの死』(講談社文庫)読む。
泥まみれの死 (講談社文庫)

泥まみれの死 (講談社文庫)

澤田教一ベトナム写真で世界的に有名になつたが1970年に亡くなつたのはカンボジア。当時は香港にサタ夫人と住まひ香港からのインドシナへの出張撮影報道続けてゐたもの。香港のFCCのラウンジにもキャパらと並び澤田教一追悼の写真コーナーがあり、いつもそれを眺めながらアタシは酒を獨酌すことになる。
▼畏れ多くも陛下の年頭のお言葉に「昨年は、台風の上陸もなく、自然災害による犠牲者の数は,例年に比べれば少なかつたのですが」とこの「犠牲者の数」といふ実に客観的な数値を、自然災害での国民の犠牲で用ゐられるのがさすが陛下ゆゑ赦される話。金融危機に敢へて「国民の英知を結集し、人々の絆を大切に」困難を乗り越えよう、と。で最後に金婚を迎へるご夫妻が「皇后と共に、これからも、国と国民のために尽くしていきたいと思ひます」と有り難いお言葉よ。下々の政治家も私欲なく国民のために尽くせれば良からうものを。で皇后様の新年の御歌。
たはやすく勝利の言葉いでずして「なんもいへぬ」と言ふを肯(うべな)ふ
三ノ輪の肉屋の倅おもはず発せし俗語をそれこそ肯はせ給ひ、雅に言ひ換へ遊ばし、御歌とて永く刻印せられ給ひしかと思へば、あやにくに忝し……と久が原のT君の弁。思はず「あや、肉に忝し」と読んでしまつたアタシ。

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富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/