富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-12-28

十二月廿八日(日)曇。昨晩は腰痛がかなりひどく寝返りも打てず。鎮痛剤飲んでどうにか眠りを招く。朝起きて立ち上がるも難儀しつゝ自動車を雇ひ養和病院へ。乗り降りでは「慢慢的lah〜」と親切な運転手だが一旦走り出すと運転は人柄が変りお世辞にも腰に優しいとはいへず。唸りつゝ病院につけば日曜朝は幸ひにもインフルエンザの流行もないからか閑散。当直医の診断受け鎮痛剤を注射、飲み薬を処方され帰宅。机に坐るのが何よりもつらいが寝床にクッション置いて寝そべり膝を立ててノートブックを置けばWi-Fiは繋がつてゐるし音楽はAirportでBoseのHi-Fiから流れるし世の中は「個人の空間のレベルでは」快適に便利になつたもの。昨晩は自家製コロッケで今晩はお好み焼き。大河ドラマ篤姫』総集編続き見る。幕末の徳川の家を結びつけるものが「家族の絆」といふのがなんとも「今、日本人が求めてゐる大切さ」そのもの。ぎつくり腰の所為で三日も家にゐたので机まわりかなり片づく。
▼昨晩読了の吉田健一対談集成。河上徹太郎との対談が主だが「東京の昔」といふ佐多稲子と池田彌三郎との鼎談(中央公論誌1974年8月)で健坊が矢田挿雲の『江戸から東京へ』の話を持ち出すが今から35年近くも前の、この江戸東京を代表するやうな人物たちにですら挿雲の書く江戸東京の話がもう昔のことだつたのか、と思はされる。更に健坊が「新派つてまだあるんですか?」と一言。1974年といへばアタシにはまだ八重子(先代)の全盛で演舞場だかで見てきた祖母の話を聞いてゐたものだが。だが彌三郎さんが髪を解いて舞台で自分で結ひ上げてみせる花柳章太郎を讃めてゐるが、章太郎はアタシも見てゐない。もう一つ面白い話。彌三郎さんが生家で、銀座の其処は当時出入りの職人が澤山ゐて、昼間は家のお仕着せの揃ひの半纏なんか着てをり、汚れて裏口から出入りしてゐるのだが、その職人らが仕事が終はつて一旦帰り鳥渡お湯に入つてこざつぱりした着物に着替へ羽織を着て出直してくると、今度は家の玄関から入つてくる。昼は出入りの職人でも夕方になれば彌三郎さんの姉やなんかのお茶や華道の師匠なのだ。で今度は正面から入つてくると彌三郎の父もその師匠らを上座に坐らせ自分らは下座へ。健坊がその話を「文明」と呼ぶ。英国でもホテルの給仕が食堂では慇懃に客に諂ふがホテルを出て非番になれば酒場で会はうものなら客に「やぁ」と気軽に接す。本質的に人間に上下はないが立場と場合によつて上下に入れ替はる。それが文明社会だ、と。そんなものがなくなつて久しき、と昭和49年の話。
▼昨日の続きになるがTyler Brûlé氏のMonocleが今日から週刊でネット放送配信開始。倫敦を基点にユニクロとか「東京で創刊された雑誌POPEYE OilyBoyが」がとか話題にしてゐるのも可笑しい。なにせ話題の雑誌が日本語媒体ぢやどうしやうもあるまい……と思ひつゝ日本でだつて読めなくても英米仏の雑誌がヴィジュアル性と印象で売れるのだから同じことか。でも結局、Monocleとか読んでゐて思ふのは世界のTravel Top 50 2008/9なんて大それた企画でも「ANAのインフライトのパジャマが良い、ファーストクラスのチキンカレーが美味い」などと日本の80年代のやうにカタログ的で、FT紙での好評連載(Fast Lane)も結局は「アムステルダムのホテルオークラクラブハウスサンドヰチが貧弱である」(こちら)、と私にはただそれだけの意見感想としか読めず、そこに田中康夫的な批評性であるとか思想が見えないところが物足りない。ネット発信の音声による番組もかつてのBBCのWorld Serviceや日本でいへば確か70年代後半にTBSで萩元晴彦の深夜のインタビュー番組、もつとメジャーどころでは永六輔のラジオ番組の果敢なところを知るゆゑ、このMonocleの発信がどこまで出来るか、と思へてならず。

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