富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-08-03

八月三日(日)朝から雨。かなりの本降りのあと陽射しのなか小雨模様もまたをかしい。明朝五時過ぎにハノイ着の予定なのでハノイのホテルにearly check-inのお願ひなどメールで済ませ昼まで部屋で寛ぐこと暫し。このホイアンといふ町、日本から天正、永禄の時代(16世紀後半)に商人が渡り、その後は華僑の貿易町として栄え今日にその風情を残し欧州では近郊のミーソン遺跡と並び世界遺産となり観光客は、殊にこの地をファイフォ (Faifo)と呼んだ欧州人には事の外、旅情をそゝる土地なのか人気あり。日が暮れて旧市街漫ろ歩けばいやはや仏、独、英、西班牙と欧州の言葉が交じる数千の数の観光客の姿。旧市街といひ海岸のリゾートといひ大小数百件のホテルが夏のヴァカンスシーズンとはいへ東南アジアは雨期の暑苦しい季節にこれだけ人を惹きつけるとは。それに比べアジア人観光客の少ないこと。タイでいへばホアヒンもさうだが、鳥渡のアクセスの悪さがアジア近隣からの客を遠ざけ、逆に遠き欧州から空路、陸路と何日もかけての旅人はそれを厭はぬのが不思議。彼らが正直言つて半日もあれば観光も済みさうな(さういふ意味ではタイのチェンマイもさうだが)その小さな町で彼らはまつたりと何するでもなく何日も逗留。ビーチ沿ひのリゾートホテルに泊まる客ならまだ連泊もわかるが、旧市街のバックパッカー相手の安宿に泊まり繁華街のバーのテラス、と言へば聞こえが良いがバイクの騒音と埃や砂塵の舞ふ街頭に坐してビールや珈琲など飲みながら何を感じ入るのかしら。香港から来たあたしらでは想像もつかぬくらい異国情緒たつぷりなのでせうが。昼前にホテルをチェックアウト。ホテルの自動車でダナン市街の鉄道站へ。13:05分発予定のハノイ行きSE2特急は予定通り運行の由。12:35に到着予定なのは、南北ヴェトナムの中間にあたるダナンは欧州の都市站のやうな(上野站もさうだが)行き止まりの終着站で入つてきた列車はスヰツチバツク式に折り返すゆゑ。ディーゼル機関車を最後尾の車輌に連結させたりで停車時間は長い。ホーチミンから走り続けた先頭の機関車はここでお役御免。ただ、もしかするとこのまま次に入つてくるハノイからの特急を牽引して南走するのかしら。駅前食堂で簡単に昼飯済ませ站に戻るとハノイ行きとサイゴン行き(やはり首都ハノイ行きが上りなのか)が十数分違ひの繁忙時間で待合室は冷房も適はぬほどの人いきれで蒸せる。五分ほどするとハノイ行きの特急が来るとアナウンス。到着したSE2特急の寝台車輌は三日前の車輌より更にオンボロ。今回も四人用の個室寝台を買ひ取りZ嬢と二人で占領。この寝台の柔らかい個室寝台は中国で言ふところの「軟臥」だが今日の車輌のトイレには「有人」「無人」とあり車輌が中国製なのは確か。車輌の古さからすると中越紛争以前のものかしら。昼すぎから好天。ダナンを出た列車は小一時間もせぬうちに越南統一鉄道最大の難関で風光明媚なる名所、ハイヴァン峠に至る。国道一号線は箱根のやうに曾ては峠越え(現在は2005年に開通の日本の資金援助によるハイヴォントンネルが開通)で鉄道は海の近さは日本でいへば五能線だが、このハイヴォンの岬を海抜30mくらひを途中3ヶ所の長いトンネルを除けばフィヨルドに沿つて山肌を縫ふやうにゆつくりと進む。迂曲が続き13.8:150といふ鉄道ファンには信じられぬ、10号車の車窓から先頭の機関車も最後尾の13号目の貨物車も左右の視界に入つてしまふ、その間に若狭湾か狭さ的には金華山のやうな入り組んだ湾が眼下に広がり絶景かな絶景かな。よくもまぁこんな紆余曲折の鉄道を敷いたものだと。自動車道と同じくハイヴァン峠を貫徹のトンネルでも掘るか?と言へば鉄道業衰退で基幹線とはいへなにせ単線の非電化鉄道では日本政府も円借款もせぬだらう。目を楽しませてくれるにはこれで良しだが峠の紆余曲折の線路の保守修繕はかなりの労力投資ゆゑのことで沿線に線路整備箇所散見。猛暑に山あひで小屋に住まひ保線作業に従事の猛者多し。列車は三十分ほどかけ峠をまはり北側のランコーなる海浜避暑地へ。ここから越南最後の王朝・阮(1802〜1845)の古都・フエも近し。フエは車窓から水濠と城壁の西南角を眺める。昨晩ホテルの図書室から拝借の西村京太郎「東京発ひかり147号」なる推理小説を暇潰しに読む。鉄道モノの推理小説は列車の長旅に適しさうだと思つたが推「理」以前に刑事らの推「測」が当り辻褄合はせのやうにいくつかの殺人事件が結びつく都合の良さ。予知能力ある少年が年上の或る女性に恋してストーカーもどき、で偶然に少年が一人旅の車中、新幹線のなかで耳にしたのがその憧れの女性を殺さうと企む相談話……つてそんな何百万分の一の確率の偶然キッカケに事件が、と言はれても……。列車は午後5時過ぎゐよ/\北緯17度近きベンハイ河のDMZ(かつての南北越南境界へ)と向ふ。緑豊かな穀倉地帯。西の連山はもうラオス。南北統一鉄道でもこゝで南北越南統一祝すプロパガンダ放送もなく列車もフエを出てからは晩遅くまで停る站もなく余程気にかけてをらぬとベンハイ河を渡つてしまふ。地図で(といつても越南国土地図買ひ逃しLonely PlanetDMZ地域の10万分の1の地図で)村落やら国道1号線との折り合ひでDMZ近きことを確かめ車窓からDMZとベンハイ河の眺めを逸さぬやう待ちかまへる。やはりあたしらの世代には南北ベトナムのこのDMZといふのは記憶に鮮明なものあり。走り続ける列車の車窓から写真など数枚撮れるかどうか。敢へてライカを選び写真機ぢたひはM6ではベトナム「戦後」だがズミクロンの8枚玉は世代的にベトナム戦争を知つてゐる。午後5時28分、ベンハイ河を渡る。快晴。この掲載の写真はたんなるベトナムの車窓の風景だがDMZ。ここでフォークルの「イムジン河」とかつい口遊みさうになるのはやつぱりあたしらの世代かしら。小田実はどうしても支持できぬがベ平連とかベトナム平和運動があり反米帝の思想はやはり今でも拭ひ切れず、香港だつてあたしらが香港に来た頃には西貢や、それどころか今では地下鉄が通りベッドタウン化した馬鞍山にベトナムボートピープルの臨時収容所がありアタシも一度だつたが収容所で日本語の学習を所望する難民相手に日本語指導の手伝ひに行つたことふと思ひ出す。米国でもカナダでもなく「日本へ行きたい」といふ彼らに心の中で「日本はさう易々とあなたたちを受入れる国ぢやない」と思ひつつ口には出せず。その数ヶ月後に収容所閉鎖され彼らはいつたいどうしたものか。一党独裁であるとか経済成長での極度のインフレと経済格差など問題は山積みとはいへ少なくともボートで海外に難民亡命しようといふ結論には至らず生きていける、今は幸せか。南から北に入り風景ががらりと変はるわけではないがホーチミン近郊の商品作物、殊に果物栽培の盛んに比べ稲作ばかりが目立つ。夕暮れのなか沿線の赤々とした明かりが何かと思へば暗闇のなかに製鉄工場の溶鉱炉の火。今どき溶鉱炉からの火が漏れるなんて、なんて社会主義的なのかしら。車内販売の弁当で夕食済ませ列車に乗つてからずつと飲んでゐたハノイウォッカの瓶(300ml)もすでに空になり列車が北ベトナム南部「だつた」町・ドンホイに着く七時過ぎには外は暗闇。站構内の売店でビール購ひ飲み干して早寝決め込む。

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