富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-08-01

農歴七月初一。朝起きたら四時半。どうしませう。ところでこんな郊外のリゾートホテルもネット環境はコテージまでwi-fiの時代。下手にケーブル引くよかwi-fiのはうが設備投資としては楽なのは確か。wi-fiじたいは快適だが断続的に外に一切繋がらなくなる時があるのはベトナムの通信事情の所為かしら。小一時間もすれば回復。ホイアンの南西50kmくらひの山あひに当地の古代王朝チャンパ王国の聖地、ミーソン遺跡あり。せつかくだから行かうかどうしようか、と言つてゐたがホテルのツアーではUS$36は法外だが昨晩Z嬢が市街の雑貨屋兼業の小さな旅行案内所でUS$5のバスで往復の1日ツアー見つけ、これに参加することに。朝8時にツアーのお迎へありいくつかホテルを回り参加者をピックアップして市内の集合場所で降ろされ、ここから大型バスでミーソンに向ふのだがバスは座席後ろ半分が横臥型の長距離用で坐りきれず寝台をシェアして坐すやうなハメになるがUS$5のツアーでは致し方なし。世界各地からあたしら含め安っぽい旅行者鳩まり車内はまるでBabylon by Busの風情あり。説明好きのツアーガイドで行きの車中、ミーソンについて最初の案内所、更に遺跡入り口の休憩所とミーソン遺跡の説明が続き「時間までに集合地点に戻ればいいか?」といふ参加者のリクエストは拒否され遺跡でも詳細に渡り説明が続く。チャンパ国の王様が4世紀だかにシヴァ神祭る木像の祠堂建立に始まり7世紀に煉瓦建築が始まり現存するのは8世紀から13世紀の遺構。煉瓦でかなり精緻な意匠施す。19世紀に仏軍の兵隊が密林のなかでこの遺跡を「発見」。ベトナム戦争ではベトコン退治で米軍が空爆した結果、いくつものパゴタなど破壊され現在はその瓦礫が草叢に残るだけの地区もあり。昼前には遺跡見学終はり、往路にガイドが「遺跡見学後は船での川下りや昼食、少数民族のショーと土産物ショッピングもありますので」と車中で説明したので「それみたことか、やつぱりそれに嵌められる」と思つたが復路にそのオプションを選んだ客だけが復路、河辺で降ろされ残りの参加者はそのままバスでホイアン市街へと戻る。チュンバック(Trung Bac)といふホイアン名物のカオラウ供す食肆で昼食。バインバオバック(通称ホワイトローズ)も食しカオラウがあまりに美味いので二皿平らげる。食後に食肆の数軒隣りの古くさい理髪店で散髪。VTD40,000(約US$2.5)は観光客値段でせう。顔剃り、耳掃除どころか睫毛!のトリートメントまであり。シャトルバスでホテルに戻り静かな、ほんと数名の宿泊客しか遊ばぬ海岸に寛ぐ。樋口陽一先生の「憲法入門」再読。1997年の改訂版だつたか読んでゐるが、その後、憲法の置かれた状況に合はせ已に四訂版。極めて真つ当な護憲の立場での憲法論は中学生でも読める平易な内容。護憲といふと今の日本では左翼的だが日本国憲法は普遍法としてかなり理想的であるから憲法学者といふ専門家の立場で普遍法たる憲法を狭隘な一国家政権に有利な改正はすることは間違つてゐる、といふこと。「国の教育権」についての記述の中で、東京都の国旗国歌強制での教員処分に関する裁判で最高裁がこれは思想信条の自由を侵す不当な支配とする地裁判決退け違憲主張退けたが、この反対意見としてこの裁判で問題とされるのは教師各人の思想信条ではなく学校といふ教育現場が公的儀式で参加者に儀式内容への強制をすることに否定的な教師の信念ではないか?と少数意見をつけたこと取り上げ、この著作でいくつも挙げられる最高裁判例(それも情けない判決が多いが)の中でこの部分だけこの少数意見の提出が藤田宙靖裁判官によるものと明記されてゐることが印象深い。藤田氏は樋口先生の東北大法学部時代の同僚で鳥渡、その後の行革委員になつたあたりからの「中央」へのすり寄りには多少気になるところもあるが「こゝぞ」といふ時の、しかも最高裁では大切な判決での少数意見に樋口先生は元同僚へのジェントルマンシップとして敢へて、この四版でのこの言及だつたのかしら。少ない文学者の言葉からの引用で荷風散人が目立つのも興味深いところ。憲法議論に積極的に取り組む樋口先生も気分的に荷風的なこの現世への隔世もあらうかしら、と思ふ。
ケルゼン「民主制の擁護」1931年より(長尾龍一訳)民主制はその最悪の敵さへもその乳房で養はざるを得ないといふ悲劇的宿命を負つてゐる。民主制が自己に忠実であらうとすれば民主制撲滅運動を容認し、それに他の政治的立場と同様の発展可能性を保証せざるをえない。かくて民主制は最も民主的な方法で廃棄されるといふ奇妙な場景に直面する。国民が、最大の邪悪は自己の権利だと信じ込まされて曾て自らに与へた権利の剥奪を要求するといふ場合に。……船が沈没してもなほその旗への忠実を守るべきである。自由の理念は破壊不可能なものであり、それは深く沈めば沈むほどやがて一層の情熱をもつて再生するであらうといふ希望のみを胸に抱きつつ、海底に沈み行くのである。
……といふ言葉の引用あり。だが日本といふ国は樋口先生の指摘の通り某首相(福田一世)が首相退任後に「憲法こそ戦後日本の諸悪の根源」と宣ひ(小泉三世は自衛隊海外派兵で違憲で何が悪いかと開き直つたが)史上最年少で首相になつた孫(安倍三世)は憲法を筆頭とする戦後レジームからの脱却を唱へ党総裁に選出された。が戦前の日本では憲法の「私議」禁止の建前から議院法や請願令でも憲法改正は対象たりえぬとされてゐたのに対して現行憲法を与党の元首相が「諸悪の根源」とまで言ふ自由を認めてゐることを日本国憲法の長所として認めるべき、と樋口先生。「憲法批判をタブーとしてはならぬ」と言ふが一切のタブーからの解放もこの憲法によつて実現されたものであり現憲法に不満もつ人々にこそタブーの再生(「それでも日本人か」といつた非難の仕方)がある、と。改憲政党たる自民党こそこの憲法のもとで長期政権を維持した受益者なのにその憲法を保守しようとせず改憲が党是なのに本気で改憲をしようとせず今日に至り党内で強硬な改憲論者が出てもブレーキをかけるでもなく……これが戦後そのもの。御意。ところで樋口先生が戦前の状況で昭和天皇が「あのとき敢へて軍の暴走を止めようとしたら却つて国が大混乱になつてゐただらう」とした述懐を挙げ「それ以上のことをなし得る力量をもつ政治家を、いま、主権者・国民は選び出してゐるだらうか」と指摘したところが興味深い。その通りなのだ(そして戦後のこの現行憲法の最大の擁護者=護憲機能が今上天皇であらせられる事実)。……敢へてこの樋口先生の憲法本であるから曾てベトナム戦争の激戦地に近い、このリゾートホテルの図書館に置いてこようか、と思つたのだが樋口先生がこの本の「をはりに」で普遍法としてのフランスの人権宣言と米国の独立宣言を援用し1945年にヴェトナム民主共和国独立宣言がうまれたことに言及されてゐる。「ヴェトナム人たちが、まさにこれら二つの国の支配に抗して一連の長く苦しい独立戦争を戦はなければならないことになるだけに、そのことは示唆的である」と。この一文だけでもこの本がヴェトナムに置かれて良からう、と思ふ。自民党といへばこの本を読み終はり部屋に戻るとZ嬢に「麻生幹事長だつて」と言はれ、ここ数日新聞もロクに読んでゐなかつたので「ん?」と思つたが築地のH君からのメールで福田三世の内閣改造を知る。小泉三世の郵政解散の時はバンコクにいたし昨年の夏もチェンマイで築地のH君と安倍君の参院選敗北を受け民主党岡田首班での連立内閣なんてメールでやりとりしてゐたが、H君の指摘によれば
毎日新聞記者で新自由クラブ出身、『軍縮問題資料』の常連筆者だつた鈴木恒夫君が文相。前任の渡海君に続きそれに輪をかけた「リベラル文相」の誕生。福田三世のかなり本気な安倍路線の教育改革への嫌悪。法相は曾て「加藤の乱」に加担した保岡興治君起用も好感度大。経済財政担当相に与謝野馨君といふのも小泉−竹中流新自由主義路線と明確に一線を画すといふ意思表示にほかならない。
と。なるほどねぇ……と海岸に面したベランダで葉巻をくゆらせつつ東都での内閣組閣を眺めてゐると吉田茂のようだがZ嬢に「酔つてゐてばかりで吉田健一の間違ひでは?」と指摘あり。晩にホテル近くの観光客相手の集落で川沿ひのChinhなる名の食肆に夕食。昨晩に引き続きVang Dalatの白を飲む。炭火で焼いた海老や烏賊など期待より美味。月がなく海岸も真つ暗。晩に驟雨幾度かあり。草間彌生自伝「無限の網」半分ほど読む。

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