富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-07-15

七月十五日(火)久々に雨降らない一日でした。私は朝日新聞大江健三郎さんの定義集を読みました。先月の大江さんはトルコの作家、オルハン・プムクの小説『雪』を取り上げ「多用される仮定法が小説の進行を中断すること」についていって「日本語が翻訳調として作ってきた直訳の文体を用いれば、この小説も物語られる時の流れにそって自然に読みとりうるはず」と述べました。もう少し丁寧に説明すれば、それは「小説の現在時より後の時点の後悔を、過去形で叙述する書き方が読みを停滞させてしまうこと」であり「仮定法の訳し方を工夫することで、主人公によりそって作者が語ってゆく、時の動きに小説をそわせられないか」という注文でした。しかし今月はこれを受け、大江さんは実はそのピンクのスタイルは作家自身がこの小説のために意識して作ったもので、訳者の和久井路子さんはトルコ語からそれを忠実に訳していたのです。勇敢で慎重な政治小説として「現在を過去として示す必要」があったのです。これは私たちにとっても実に大切な「現代の表現手段」で、とても示唆に富んだものです。しかし今月のこの大江さんの発言を、そして大江さんに失礼を承知でいえば、新聞の読者でいったいどれほどの人がこの発言の真意を読みとれているか。それが私には疑問です。この大江さんの定義集の隣は、国語学者大野晋さんを悼む、井上ひさしさんの言葉がありました。井上さんらしい、わかりやすく、豊富な意味合いの言葉で大野さんの偉業を語っています。大野さんの、これは井上さんに通じることですが普通の大和言葉に対する生き生きとした解釈。言葉を大切にしないことが戦争にまで結びつくことまで見きわめた、優れた文筆家としての大野さん。そして日本語がタミル語に起源をもつという、そのアジアの言葉としての日本語研究。井上さんは大野さんの偉業を、大野さんを知らない若い読者にまで知らせます。井上さんの追悼文を一読しただけで、読者は大野晋を知ってしまうのです。このような文章こそ新聞にとって意義あるものなのではないでしょうか。大江さんの文章は、本当に大江健三郎の発言を知らなければならない人たちが読みとることができない……それば私は残念でなりません。
Youtubeで1982年のタモリの「今夜は最高」ゲスト:藤村有弘を観る。この番組の中でも傑作と記憶に残る藤村有弘の話芸だがブランデーのグラス手放さぬ藤村はこの番組出演の一ヶ月後だつたか持病の糖尿病悪化で急逝。当時はとても精緻に思へたタモリの操る北京語と広東語がどう違ふか、の会話芸。今になつてあらためて聞くと広東語などぜんぜん広東語に聞こえないのだがタモリが短波放送や映画などで雰囲気だけでツボを掴んだのだから見事。だがさすがのタモリも「北方の中国人とフランス人は、その言葉の抑揚の美しさで共鳴する」と指摘は冴えてゐるが真似してみせたのは所謂、普通話(標準中国語)でさすがのタモリも北京官話のR化音の独特の優美な世界までは掴んでをらず(それが出来たら凄すぎか)。
唐招提寺金堂の平成の大修理。数年前に未公開の修理現場の中まで特別に参観する機会を得たが、この修復過程で明らかになつた当時の派手やかな塗装。当時の色彩は花札の色遣ひ。入れ墨の紋様の艶やかさ、そのもの。あの色彩が千数百年の、まさに日本の美そのものなのかしら。
▼米国のサブプライム融資問題。米国で住宅金融公庫的役割を果たしたFannie MaeとFreddie Macの二社、香港では漢字で「房利美」と「房貸美」と当て字してみせる。ブログの「部落」などに続く最近のヒット訳であらう。今日、同じく見つけてイマイチに思へたのは「紐育客」。雑誌 The New Yorker のことだが音は同じでも「紐育人」であるべきところ「客」ぢや意味が反対。

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