富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-03-23

三月廿三日(日)HK Distance Runners Club主催の春恒例のMount Butlerの15kmレースあり。参加。前半のUp & Downが厳しく下手なハーフよかハード。アタシは最近また耳の三半規管が不調のか眩暈といふか平衡感覚がをかしく船で揺れてゐる感じ、この10年で2度ほどひどい時に入院したが春はとくにダメで、専門医の診察受けようが服薬しようが感知もせず、この症状と上手く付き合つていかうと思つてゐるが、ここ数日またひどい。今日の走りはとにかくゆつくり、と決め込んだが、ほんと後半のフラットなコースでもスピードが出せず、抜かれる、抜かれる。1時間50分ほどでゴール。午後は映画。科学館で中国の王晶監督の『街口』看る。山西省の町でちよつと不良がかつた十代の少年らの生活をドキュメンタリー風に淡々と描く。ただデジタル作品でこれが140分続くと(デジタルへの偏見かも知れないが)アタシはどうも辛い。デジタルであることで映画製作の費用もだいぶ軽減されるだらうし、レンズの向かうの登場人物たちも演技が硬くならない利点はあるのだらうが。続けてマレーシアのLiew Seng-tat(劉城達)監督の“Flower in the Pocket”(口袋裏的花)看る。こちらもデジタル作品。マレーシアの小巷で6、7歳の幼い兄弟が主人公。男寡の父はマネキン製造業が忙しく子どもをかまへず、二人の少年の健気さ、がこの映画のテーマ。……と書くと「よくある話」だが、同じ筋を他の監督ではかうも優しくは撮れまい、と思はせるのがこの劉城達なる若い監督の力量。父親がふと子どもに目を向ける優しさを見事に描いてみせた。デジタルなのだが画質が優しい。科学館で2本見終はり、次が『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』なのに気づく。今年の映画祭は四月の第二部で故・楊徳昌監督とともに若松孝二監督の特集あり。そこで、この『あさま山荘』の上映あり入場券購入したが上映取消し。取消し理由不明だが映画祭の第一部の上映は予定通り。それが今晩。ならば今晩看ればいいのだが、かなり迷つて看ようと決めた上映が取消しになつた時に、これで「ご縁がなかつた」と看るのを諦めたので、今晩だとは確認してもをらず。かなり悩んだが、やはり看ないことに。逃げた、か……。夕飯をとつてをらず空腹で安い卓上葡萄酒とチーズ購ひ帰宅。葡萄酒がほんと安くなつた。日本でいふ1000円ワインでそれなりの品柄が並び、卓上なら20ドル台(500円未満)も夜遅くチーズとクラッカー頬張るには十分。
加藤周一さんの夕陽妄語朝日新聞)で「漢字文化讃」。東アジアでの情報交換での漢文の効用。それだけなら誰でも書けるが周一さんは一海知義編註『漢詩一日一首』(平凡社ライブラリー)をぢつくりと読んだ時に発見したこと……この本で取り上げられてゐる漢詩で「神」に触れた詩が一篇もなく宗教に係はる語さへも殆どないこと。
「神」とは、ここで道教の大衆的な神、仏教の神、キリスト教イスラム教の超越的人格神などを含む。そのどういう神もここにはいない。そういうことは、おそらく、編者の趣味の問題ではない。また超越的な人格神の不在は、必ずしも社会史的にみて、東アジア社会の弱点ではないだろう。中国古代のいきあんり世俗的な世界観は、次第にキリスト教を離れようとしている人間社会に、何らかの根源的な寄与をなし得るのかもしれない。その可能性はバラ色ではない。しかし灰色ではない。東北アジアには神のいない社会秩序の一つの典型があり、それこそが「希望」であるかもしれない。
なんて示唆的なこの達観。神のゐない社会秩序……極論のやうだが「希望」は確かにこんなところに見出していけるのかしら。
▼俳優の小澤重雄氏逝去。享年八十一歳。「夕鶴」で故・山本安英さんと共演の舞台看たのは何十年も前の中学生の時。

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