富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2008-01-27

一月廿七日(日)朝の気温摂氏十一度。極寒。香港の生活で何が最も不愉快か、と云へば電源のコンセントのデカさと電源コードの太さ。電器の配線など見えなければ見えないはうど良いわけでアタシは米国は嫌ひだが110Vだかで電源コンセント小さくしてくれたことだけは属国の民として恩恵感じる、のに対して欧州のあのコンセントのデカさはどうにかならないのか、香港はかういふところは英国真似て無様。家具の影で隠れるやうな場所ならいひが例へば洗面所とか、とくに漏電防止で洗面所の電源は高所の目立つ位置にあり(ホテルの髭剃用電源の位置が正しい)髭剃の充電かドライヤーくらゐならいひが拙宅の洗面所は洗面台の蛍光灯と洗面所用のスピーカー、電動歯ブラシなど電源が美しからず気になつてゐたのでヒマに任せてテーブルタップなど購つて来て見えない位置に電源コード類をまとめ日曜大工してゐたら昼。ピアノを弾く。午後雑事続け尖沙咀。香港芸術館。「香港製造」Made In Hong Kongは香港のモダンアートの展覧会。周俊輝による映画場面の精緻なる油絵、殊にビデオクリップで見せる映画『無間道』の所謂、紙芝居も面白かつたが何といつても萬青屴の21世紀的な山水画と書画の面白さ。続けて何添園の嶺南画の展示を見る。何添園(1899〜1970)は広東省順徳生まれの嶺南画派の画家。嶺南画の20世紀初期の復興は高剣父、高奇峰兄弟に負ふもので高兄弟は1907年に日本に留学し四条圓山派で田中頼璋(1868〜1940)から川端玉章に学び中国に戻り嶺南派を復興。何添園は奇峰の高弟。書もよくして戦後は香港の金文泰中學で美術教鞭の時期もあり。ところで金文泰中學は1926年創立の官立漢文中學が母体。香港植民地政府が最初に創設の漢文中学で1951年にかつての香港総督Cecil Clementi(漢文に秀でること歴代総督の中でも傑出)の名を頂き金文泰中學=Clementi Secondary Schoolとなる。午後五時から香港文化中心にて香港フィルの演奏会ありZ嬢と待ち合はせ参観。香港フィルがラフマニノフの3番、つてピアノ協奏曲ぢやなくて交響曲。1941年に故郷のロシア思ひながら、と云ふ曲だがアタシにはわからない。実際に2番は聴いたことあるが3番は今回が初めて鴨。香港フィルは江戸出悪人さんになつて着実に上手くなつたのは事実。だがさすがにまだアンサンブルを楽しむやうな、さういふ域には(一瞬、さういふフレーズがちよつと垣間見られるが)達してをらず。で今回の主役は後半、で李雲迪(Yundi Li)がプロコフィエフのピアノ協奏曲2番。アタシにとつては初の生ユンディ。ユンディ様のプロコフィエフの2番といへば昨年、小澤征爾&伯林の同録音(独逸グラムフォン)が評判。さすが18歳でショパンコンクール1位の25歳になつての演奏だねぇ、と今日も上手だがCDで聴いたいろいろな演奏に比べて遜色あり、会心の出来ではない?と思へるのは今日の夕方五時の追加公演が一昨晩からの三度目だからか、一月に入り日本での巡業(リサイタル9公演)終へての疲れか。さすがのデ=ワールト先生もプロコフィエフのこの曲はあまり馴染んでゐないのかピアノの独奏の間も小節数へるやうな緊張感あり。寧ろ李雲迪がまるで指揮者のやうに、とくに第1楽章でのオケの合奏だけの間の振舞ひが可笑しい。ところでA列27番の客が最悪。左側の息子は始終、パンフレットにお絵描きで落ち着かず右席の娘は李雲迪様の目の前で椅子に横たはり熟睡。そのA列27番に居座つた母はガキの居ずまひを正さぬばかりか自ら始終落ち着かぬキチガイぶり発揮で髪をずつと弄くる、肩を揉む、背を伸ばす……何が諸悪の根源か、といへばその家族の亭主で娘の隣席にゐるのだが妻と子二人とは距離を置き自分の世界に没入。一列目中央、李雲迪のかぶりつきがそれで台無し。アタシの席はバルコニーのちやうど「ピアノの指動が見事に眺め降ろせる席」だつたので否応なく、こいつが目障り。エコエコアザラクなり。終はつて御一緒になつたご婦人三名とZ嬢と五人で「尖沙咀の」Jimmy's Kitchenに晩餐。夕方五時からの音楽会も終はつて夕食にはいい鴨。皆さんお酒のイケるくちで、まづドライマティーニで乾杯。豪州McLaren ValeのWoodstoneの白でアボガドの蟹肉合へ、など前菜。カレー料理を注文してゐたので新西蘭のGinsen Estateの名前失念のPinot Noirを合はせる。
▼あまりの御用選挙で話題にするのも忘れてゐたが廿五日に全人代の香港代表選挙「一部で」実施され三十数名の代表選出される。千数百票で范徐麗泰(立法会議長)がトップ当選。舌禍女王・羅范椒芬も無事当選。中指事件の黄宜弘(土共立法会議員)が落選。