富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-11-20

十一月二十日(火)朝五時過ぎに目覚め萱野敦人『カネと暴力の系譜学』続き読む。今朝の朝日新聞(衛星版)に大江健三郎先生が連載「定義集」で自署『沖縄ノート』について書いてゐる。沖縄での集団自決について軍によるものとした同書の記述について名誉棄損裁判の被告となつた先生。大江先生を訴へた原告は裁判の証言で、この『沖縄ノート』のことを知つたのは実は曾野綾子著『ある神話の背景 - 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』を通じてであり、後に『沖縄ノート』も入手こそしたが「飛び飛びにしか読んでない」と明言の由。で原告弁護人が雑誌『正論』平成18年9月号に発表した論文の文章で
平成12年10月の司法制度改革審議会において曾野綾子氏は、大江氏が『沖縄ノート』で赤松元大尉を「罪の巨塊」などと<神の視点>に立って断罪したことを非難して、こう述べている。(以下、略)
と書いてゐるのだが、大江先生に言はせれば、そもそも「曾野綾子氏の立論が、テクストの誤読によるもの」ださうな。興味深い。問題とされる部分は
人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の虚塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。
といふところ。「かれ」とは渡嘉敷島の守備隊長。で難解な(と私は思ふ)「罪の虚塊」は「巨きい数の死体」のことなのださうな。だからこれを「そのまえに立つかれが「罪の巨塊」だ」と読みとるのは文法的に無理だ、と大江先生。うーん、確かに守備隊長=罪の巨塊と読むのも難しいが「罪の虚塊=巨きい数の死体」つてのもアタシには難しい。大江先生曰く、自分は渡嘉敷島に転がつた三百二十九の死体、と書きたくなかつた、なぜなら(以下、朝日新聞での表現)
受験生の時、緑色のペンギン・ブックスで英語の勉強をした私は、「死体なき殺人」という種の小説で、他殺死体を指す corpus delicti という単語を覚えました。もとのラテン語は、corpus が身体、有形物、delicti が罪の、です。私は、そのまま罪の虚塊という日本語にし、それも巨きい数という意味で、罪の巨塊としました。巨きい巨塊なら、同義語反復ですが、あまりにも巨きいとすれば、巨塊の巨という漢字の強調であることが、はっきり示せます。
……文藝作品であるとかなら書き手が好きなやうな修辞或いは筆致で綴るのは自由。だがで沖縄戦の加害・被害を語る責任の核心に触れる部分で、しかも新書は本来「誰にでも平易に読める」ことが前提であるべきところを、実は他殺死体を指す corpus delicti といふラテンの語から自らの造語で表したのです云々、と言はれても「そりや、困つた」である。曾野綾子はアタシは個人的には好きぢやないが、ここでは曾野先生の誤読もさもあらんや、とつい同情したくなる。
こんな難解な、まどろっこしい表現でしか物事が言えないのが文学なのか、私は文字で真実を語ろうとするもののひとりとして恥じ入る気持ちでいっぱいでした。
とつい大江先生みたいな悲しさで筆をおきたくなつちまふ。……朝からなんだかいやだ。東京はかなり冬めき香港はこの季節心地よき小春日和続く。快晴。久が原のT君より便りあり。昨晩の初台での羨ましいGidon Kremerの提琴とKrystian Zimermanの洋琴の音楽会吉田秀和翁の尊顔拝した由。それも幕間(音楽会の場合は幕間でなく曲間(きよくあゐ)かしら)に珈琲を誂へ雑踏の中ちよつと空いた立卓に立ち寄ると目の前に吉田翁。T君をして、見事な風采、お召物はラフだが実に立派な立ち姿、ほーつとしてをられても眼力が違ふ、と言はしめる。珈琲にいれたクリームの空いた器を間違へて卓上の、新しいクリームが入つてゐる籠に入れてしまつた先生、連れの方にそれを指摘されると「こりや失敗しました」といふ表情で、その始終を目にしたT君に何ともはや「良い顔」でニコリとなさつたといふ。その風采と笑顔(……笑みもその人が長治先生だとちと怖い鴨)。その笑顔は終生忘れまい、とT君。ふと、夷斎先生が生涯ただ一度、市電の車内で黒マント姿の鴎外漁史に邂逅した故事をT君もアタシも彷彿。ちなみに昨晩の演目はブラームスの提琴奏鳴曲の2番と3番。フランクの同曲。これを聴けるなんて東京は羨ましいかぎり。晩に帰宅すると郵便受けに、一昨日区議会選挙が終はつたばかりなのに今度は12月初旬の港島区立法会補欠選挙の「投票通知書」届く。日本でいへば「投票所入場整理券」だが日本の場合、この整理券持参すれば実質的に本人確認せぬ(できぬ)まま投票用紙渡され投票可。香港では通知書は投票の際に実質的に不要。IDカード提示し本人が選挙人登録してゐれば投票用紙が渡される仕組み。IDカードによる住民管理の徹底といつた弊害もあるが、選挙については本人以外は投票できぬだけ(つてそれが当然だが)日本よりマシ。立候補者紹介のパンフレット眺めると葉劉淑儀女史の政綱は「真的一葉・劉淑儀 I'm true to myself 坦誠 堅定 真性情」とあり。この人が“I'm true to myself”といふのがヘンに納得できて可笑しい。晩は好物の白菜と豚挽肉の鍋を芥子醤油で食す。いつも日本酒は馬生師匠慕ひ菊正宗ばかりなのだがたまには嗜好を変へようか、と仏ロワール地方はGitton Père et FilsのPouilly fumé 05年。偶然の結果だがあつさりした和食と見事な相性。食後酒にアルマニャックブランデー飲みながら眺めたNHKのNW9は今月初めからYメインキャスター体調不良で出演能はず、で報道関係の職員が代り番こでキャスター務めてゐたが昨日より確かFなる名の解説委員が「Yキャスターの復帰まで」でリリーフ役。この人が風貌も多少だが声と話し方が体調不良の前任者にそつくりで驚くばかり。NW9、首相福田君が米国訪問から今度はASEANの首脳会議に出席で「アジアにはさまざまな問題があり」と各国首脳が雛壇に並ぶ映像で挙げた一例の冒頭が「ベトナムのやうな一党独裁国家、ミャンマーのやうな軍事政権……」つて、一党独裁で挙げるなら先づ中国であるべきだし今回の会議主催国のシンガポールも、さう。ベトナムだけ槍玉に上げ失礼。ベトナムなら一党独裁と罵つてよく中国やシンガポールには指摘できないのかしら。
▼今日から成田空港など入国する外国人に対して顔写真の撮影と指紋押捺強要。テロリスト入国の水際防止の由。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。愚策甚だし。アルカイダが日本では法相の友だちの友だちで、そもそも国際的に破格のテロリストなどミシュラン東京ですきや橋次郎の寿司でも喰らふか温泉での湯治でもあるまひしノコノコと日の本に現はれず。どうせなら日本国籍の有無問はず空港で顔写真撮影と指紋押捺させることで日本国民も外国人も「痛みを分かち合ふ」べきでは? もし日本人が北京や上海の空港で指紋押捺強制されたらどう思ふか。まさに狂気の沙汰の超鈍感ぶり。
▼日本による南極海での「調査のための」捕鯨船団の出発。日本でも確かに報道はあるが(こちら)海外での報道で強調される点は「過去40年で最大規模」といふ点。それが日本の報道ではその点についてはさつぱり指摘されてをらず。不思議。捕鯨については日本の言ひ分もあらうが、捕鯨が世界的に禁止論が主流であるなかで、この日本の出方が顰蹙かふのは当然。米国のイラク征伐では片棒かつぎ忠僕ぶり示す反面、世界各国の反対の中で国としての堂々と主張する、まるで国威示さんがばかり、の部分が捕鯨である、といふところがとても疑問。
▼香港にNaxosといふCDレーベルあり。ここが設立20周年、と香港電台第4台で紹介あり。そのなかでZ嬢が香港在住の提琴奏者・西崎崇子さんの名前をこのレーベルの役職名で耳にする。西崎女史のご主人が財界人と聞いてゐたが確かめるとそのご主人、Klaus Heymann氏がこのレーベルの社主。なるほど。Heymann氏はBoseRevoxなどの音響製品の販売の傍ら音楽愛好家として香港でクラシックコンサート開催など続け20年前に自社レーベル立ち上げ。Naxosは廉価盤レーベルとして世界的に販売拡大(日本はこちら)。香港に(先日この日剰で紹介の)香港ショパン協会のAndrew Freris氏であるとか、このHeymann氏であるとか、地道な音楽事業家がゐること今になつて認識す。

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