富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-11-18

十一月十八日(日)もう十一月も中旬だが香港はこの時期、心地よき小春日和続く。本日も半袖の薄手のシャツに麻のジャケット、パナマ帽でもかぶれば気持ち良き陽気なり。本日薮用あり某所に朝から午後遅くまで詰め時間潰しに新聞や雑誌の切り抜き眺める。本日、香港の統一区議会選挙。夕方、北角通ると福建人の牙城の北角ながら福建人代表の蔡素玉の抵抗勢力も当然あるわけで思ひつきり選挙ポスターに落書きもあり。帰宅の途中にアタシも投票済ます。投票時間は朝七時半から晩十時半の15時間。投票所の係員は労苦も多からうが有権者にはありがたい時間の配慮。区議会選挙、前回2003年秋の選挙では董建華、23條治安立法での保安局長葉劉淑儀への反発から民主党が雪崩的に勝利。改選前75議席を95議席に伸ばし親中御用政党民建聯は90から62に議席減らし歴史的敗北の責任とり曽鈺成が党代表辞任。で今回の選挙に向け「愛國陣營重整旗鼓」で民建聯の議席復活がかなり濃厚。区議会となると選挙民の関心は「何処其処の渋滞と騒音の緩和」だの「公立学校の建物改善」といつた民生レベルで、さうなると民建聯、御用政党ゆゑ民生レベルでの話通すのは容易。民主党に比べ議員が地味に活動続けたのは事実。しかも今回は議員落選で汗かいた者多し。民主党と民建聯の議席数の逆転は確実。区議会といふ民生レベルでは妥当な選択か。面白みに欠ける選挙だが「山頂区」は興味深い。ヴィクトリアピーク=億万長者の豪邸、で資本家基盤である自由党の牙城。自由党候補はsolicitor(事務弁護士)の林文傑。そこに公民党が民主派のヒロイン陳淑荘(司法弁護士)刺客として送り込み山頂対決。保守的であるべき山頂の住民がどこまで民主派に肩入れするか、が見物。ちなみにアタシの選挙区は保守系無所属の現職が安泰の無風区。前回選挙は上新田の現職に辛うじて下新田から候補者擁立で無投票避けた程度。そこに今回は公民党が候補者擁立。現職当選確実で、せめてもの面白みに、また現職に緊張感もつていただく意味で対立候補に投票。両候補とも公示前から連日、朝夕と選挙運動に熱心。だが香港の場合、市民の選挙権ある者のうち4割だか5割程度しか選挙民登録してをらぬのだからビラ渡して宜しくと愛想うつても立候補者にとつては不甲斐ないところも感じよう、といふもの。昏時、ドライマティーニ一杯。鮭の炊込飯、有機大豆の豆腐、煮豆など食す。小熊英二『市民と武装』読了。萱野稔人『カネと暴力の系譜学』少し読む。
田壮壮監督、張震主演の映画『呉清源』が昨日より東京(シネスヰツチ銀座)などで上映開始。香港では四月の国際映画祭で上映済み。半年以上も遅い日本。数日前の朝日新聞佐藤忠男先生がこの映画について書かれてゐる。田壮壮監督に対して、戦前から戦後といふ時代をよくそれほど理解してくれた、と感謝の言葉。田監督が当時の棋士のこの世界に感心してゐたのか呆れてゐたのか、いづれにせよ日本映画でもめつたに見られない心優しい描き方をしてくれた、と。ちなみに邦題は『呉清源 極みの系譜』だつて。センス最悪。
▼昨日の信報で劉健威氏が紐育散記綴られる。Chelsea地区の画廊散策中にGilbert and Georgeの新作と向き合つた健威兄。モダンアート代表する老大家二人の裸体姿、屈んで手で尻肉を開いてクローズアップされた肛門、はたまた「幾根糞便」まで見せられた健威兄は「看不到主流和藝壇的新方向」と狼狽隠しきれず。だが疾うに還暦も過ぎた六旬も半ばのポップアートの巨匠お二人の「作品」は案の定、ポップ(こちら)。倫敦のこの春のTate Modernでのお二人の作品展(こちら)を眺め一言、素敵だ、と思ふ。
▼10月28日付けの紐育タイムズのOp-Ed欄に掲載されたFrançois Furstenberg教授(モントリオール大学、歴史学)の“Bush’s Dangerous Liaisons”を信報の翻訳で知り面白く読む(こちら)。911以来「テロ」だの「テロとの戦ひ」だのとテロといふ言葉ばかり脚光浴びるがFurstenberg教授はフランス革命の時代まで話を遡らせてテロとは本来、ジャコバン派の恐怖政治に端を発するもの、と指摘(こちら)。
“Confronted by a monarchical Europe united in opposition to revolutionary France ― old Europe, they might have called it ― the Jacobins rooted out domestic political dissent. It was the beginning of the period that would become infamous as the Terror.” “The word was an invention of the French Revolution, and it referred not to those who hate freedom, nor to non-state actors, nor of course to “Islamofascism.”
小熊英二著『市民と武装』(慶應大学出版会)について。米国の銃社会を非難するのは簡単。だが著者が指摘するのはマキャベリに紐解き「共和制を守るものは経済的に自立した武装自由市民である」といふこと。専制に対して権力の保護なしに自らの自由社会を守るための武装。その自由国家防衛のための市民の軍としての参集。その理想系としての米国の理念(現実は別として)。黒人奴隷の解放が実は南北戦争北軍が兵力目的としたものの結果であり、米軍での1948年の人種隔離政策撤廃もソ連による米国の人種差別批判受けてのもの、といつた指摘が面白い。フランス革命とて自由、平等、博愛と建前は美しいが国民皆兵はこの革命の結果。イデオロギーと正義が掲げられた結果、戦争も殲滅戦となり近代といふ実は野蛮な時代の夜明け。この本に「市民と武装」ともう一つ掲載されてゐるのが「普遍といふ名のナショナリズム」といふ文章。論文めいてゐて当初、多少つまらない感じがする。事実、これは学部での卒論が植物色素!であつた著者が東大の大学院入学の際に提出の論文。会社の休みに5日間で書き上げた、といふ論文は最初、いはゆる学説の紹介、なのだが、これがじよじよに小熊ワールドに入り込む。廿世紀初の米国で第一次世界大戦を前にどうナショナリズムが形成されてゐるか。それが所謂、日本の「単一民族の神話」ではなく(当然だが)、数数多のエスニック集団が存在する米国で、それぞれのエスニック集団がエスニシティを強調することで差別克服のために自分たちの集団(米国)の利益のため民主主義の名の下に戦争に協力する、その課程を見事に語つてみせる。移民受け入れの根本思想であつた文化多元主義が戦争といふ状況下でマジョリティとマイノリティの同床異夢のうちに形成され文化多元主義と国際主義にもとづくナショナリズムが他民族国家の米国を戦争に動員する機能を担ふ=国家統合を優先するナショナリズムは民族の枠を超える(Transnational Nationalism)……といふこの指摘は、アタシはある面では「八紘一宇」の理念と近いところもあり、と思つたのだ。更に興味深いのは、このTransnational Nationalismが「敵の存在」が前提となる統合であり(初期のディズニー映画と同じ!)、これは「十九世紀末に新移民の大量流入を経験し、統合の危機に直面したあと、くりかえし戦争を続けるなかで、「共通の敵」と戦う「多様な民族が共存する国家」という自画像が生産されてきた結果」=「二〇世紀以降のアメリカは、つねに「共通の敵」を設定し、戦争状態を維持するなかで、国内統一を保つてきた国家」といふこと。この敵が共産主義であり、共産主義壊滅のあとはテロリズムとなつたのは明白。

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