富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-08-24

八月廿四日(金)久々の快晴。昼に金鐘のGreat Food Hallにて噂のTriple O'sハンバーガー食す。ファーストフードとしては確かに段違いに美味い。夕方、養和病院で目頭傷治療抜糸済ます。看護婦に「で、書籍の片づけは終わって古本屋に本を売り払ったの?」と笑われる。傷口は偶然にも眉毛の中にちょうど隠れる筋で「接吻の至近距離」にでも来ない限り傷の在り処さへわからぬ。高座に上がる噺家にとって顔もまた大切で、安堵。尖沙咀のDavid Chan氏のカメラ店に寄る。店に入るなりご亭主、目敏く「その扇子、何処の?」と尋ねられる。「京都の宮脇はんどす」と答えると「柄もやけど、柄の竹の反りといい細工といい、ええなぁ。今度、買うてきてもろてもよろし?」とさすが目利き。アタシの草臥れたパナマ帽もかなり興味もっていただく。高田馬場で十七、八年前に買ったもの。老夫婦で営むその帽子店も今では店を畳んだのではないかしら。沈胴式のズミクロンの50mmレンズ、この店で購い多少動きが硬く修理依頼したら今度は緩すぎて再修理請う。もうこれ以上直すとちょっとイカれてしまいそう。ご亭主に同じ50mmのズミクロンでも固定鏡胴式の、もう半世紀近く前に製造されたレンズ見せられる。食指動くが値段がこのレンズの現行品の新品価格より1割安。古レンズの良さもあろうし、実際にR-D1sに装着して撮ってみると(こういう時にデジカメは便利)ピントもばっちり、発色も柔らかい。でも中古市場でも垂涎の的というほど希少価値のあるレンズなら高値も当然だが、ズミクロンの50mmという、ライカでは基本のき、みたいなレンズだと思うと鳥渡、値段で躊躇。思うところあり尖東の新冨山撮影器材公司(New Francisco Photo)へ……以下、略(笑)。帰宅途中に北角の十三座牛雑でホルモン串立食い。美味。帰宅してハッシュド=ビーフ。二更に出かけてBroadway Cinematiqueにて野上正義監督の映画『愛の処刑』観る。三島由紀夫が『アドニス』なる好事家雑誌に榊山保なる筆名で寄稿の小説を三島の死後(83年)に映画化。今夏で三度目の国際短編映画祭、この『愛の処刑』と、中村幻児監督が三島由紀夫と盾の会を姿をパロディでホモ映画に仕立て大杉漣が主演の『巨根伝説』の二本上映あり。而もこの二本に「三島先生、是??? Is It You, Mr. Mishima?」つまり「これって三島先生ですか?」というタイトルをつける。絶妙。確かに『愛の処刑』は三島の匿名小説(今では新潮社の三島由紀夫全集「補卷」にこの小説の収録あり)で、『巨根伝説』は三島死後のパロディ映画。ならばこのタイトルは文句のつけようがない傑作。『愛の処刑』は(以下、筋書き)中学校の体育教師が可愛がる教え子を雨の中に立たせて肺炎拗らせ死に至らしめ、それをもう一人の美少年に叱責され、その少年に促されるまま切腹し陶酔のうちに死に至る、という「もうとってもわかりやすい三島ワールド」で、辛く指摘すれば「他愛ない」筋。映画のほうは誠実に映像化しての正味60分。原作では切腹後の多少グロテスクな臓物の写実と、この教師の恍惚から興奮に至び下帯うんぬんの表現があったと記憶するが(この作品が三島由紀夫と証されてから何処だったかに再掲載されたもの、写しだか手許にあったはずだが見当たらず、詳細未確認)映画ではそういった部分をかなり抑制したことで予想以上に淡々と。あらためて、この物語に登場する中学教師、二人の少年(一人は殺され、一人は教師に死を促し最後は自害)その三人三様の全てが三島自身の自己の投影なのだ、と思う。三島の面白いところは、これがたんに小説家の理想型なら、そう評して済まされるのだが、本人が最終的に、この物語と同じ死に際を体現してしまったのだから(しかもクーデターのオマケつき)。撮影も余計なものを全て削ぎ落とし、カラーの色調も、前衛的でありながら日本古来の楽器用いた音楽も良し。この映画、三島由紀夫自身が見たらどれだけ喜ぶか。巴里で上映などされていないのかしら。少なくとも大島渚愛のコリーダ』より、この野上正義監督の『愛の処刑』のほうがセンスがいい。それにしても日本でも観る機会など稀有のこの映画を香港で観られるとは感慨深いものあり。今日は村上陽一郎著『安全と安心の科学』読む。最近、新書ばかり読んでいるのは先日、書架整理で「こんなに読みかけの新書があったとは」と反省、で順番に読んでいる為。でこの本、少なくとも、MBAだか経営学修士だかでワケのわからぬケーススタディだのチームワークとリーダーシップ養う為とかの目的で下らないキャンプやホテルでの合宿などしているのなら、この村上先生の本で「リスクとは何か」「安全と安心はどう違うか」学んだほうがよろし。
▼香港で中国からの牛肉供給滞る。Happy Valleyの肉屋にてハッシュド=ビーフのために豪州産スキヤキ用牛肉購おうとしたら、通常HK$88/磅くらいなのに今日はHK$128と高騰(なんて高い、と驚きの日本の消費者の皆さん、1磅は453g、つまり100gが300円ですからすき焼用と思えば楽天最安値より安い)。
親中派御用政党・民建聯の馬力主席の通夜昨晩より営まれ本日、本葬。昼に荼毘に付される。地方自治体の一政党代表の身分ながら棺には五星紅旗かけられ北京中央も哀惜の意を表す。馬力氏の生涯を一言でいえば「国家に死す」。果無し。死して尚、本人の蓄えと知人らの寄付により「馬力国民教育基金」創設の由。なぜ教育基金でなく「国民」教育基金か。あの世に逝ったのだから、せめて国民やめればいいのに……。
▼昨晩、吉見『博覧会の』続き読んでいると、日本で博覧会の開催に熱心なのは百貨店、鉄道会社に続き新聞社が挙げられ、大正6年に上野公園で奠都五十記念博覧会開催され読売新聞はこの博覧会に合わせ東海道駅伝競争実施とあり。こういった新聞社主催のスポーツ催事の先駆けして挙げられるのは日露戦争の頃の大阪毎日新聞による鉄道マイル数競争や海上10マイル競泳の実施。それに続き大正初期の朝日新聞による全国中等学校野球大会が挙げられている。この野球大会がone of themといってしまえばそれまでだが、競泳や駅伝に比べ更にチーム競技であること、地元の多数の中からトーナメント制で選ばれ地元を代表して参加すること、といった点で学生野球が(今日に至るまで)誰にも関心が持たれ共鳴をもたれる点で興味深いもの。
▼オリンピックも、実は近代オリンピック開催当時は万博のオマケ。運動能力の増進も、未開人の文明化と同じく社会進化論イデオロギーと思うとわかり易い。で第5回ストックホルム大会からオリンピックが万博から独立するが、これは、その場の参観者だけが洗脳される万博に対して、オリンピックはマスメディアを通して、その興奮が世界中に伝えられる波及効果の大きさが注目されたがため。で、聖火リレーや表彰台、壮大なオリンピックスタジアムの建造や式典の演出など、今ではすっかりお馴染のこの光景が誕生し、その段階で完成していたのが、ヒトラーによる1936年の伯林オリンピックなのは周知の事実。帝国の神聖化、が戦後も、来年の北京だって活用され続ける。万博という「産業技能から運動技能への焦点の移行は、近代のまなざしが、われわれの身体をより直接的に捕捉するようになったことを示す」(吉見)。このスペクタル的な権力の展開は、万博やオリンピックなど国家レベルのものばかりでなし。日本「特有の」明治以来の小学校の運動会とて、実は「根」は一緒。すべて、近代の国家の<まなざし>によるもの。
▼陶傑氏、今日の蘋果日報連載で「小神童」。待ってました、の9歳神童の数日前に「発見された」14歳の女の子について。この子、将来は医者になりたい、と香港中文大学医学部への進学表明(中文大医学部といえば香港政府教育局局長から更迭された李國章の故郷)。これに対して陶傑氏曰く医科で学ぶは、単にラテン語で医学用語学ぶばかりでなく九旬の生死の際にある病人と語らいもあり。僅か14歳の少女に多少の人生経験積んだ程度でこれに能うか、と。御意。米国を例にすれば医学を学ぶはたんに学士課程に非ず、まずは生物化学系の学位を取得し成績優秀で医学学びハーバードやプリンストンでは医科の1年次は21歳にならねばならず、たんに中学でAがいくつあろうがダメ。医学はたんに医療技術に非ず生死彷徨う患者との前線にあって医者は哲学者たらんとするもの。14歳の神童?、笑わせるんじゃないよ、このテの世界、つまり哲学者、宗教家、裁判官、小説家……は神童はいらず、ただ老う毎に人生の性(さが)知る者にこそ、の叡知(こんな話は家元=談志師匠も言っていたっけ)。ほんとうにこの少女が神童なら、マスコミの取材に対して「将来は医学の道に進みたい、と思います。でもまず哲学と歴史を勉強したい。将来、医者になるには、それが役立つと思うんです。それに私はまだ14歳。少し静かにさせていてもらえますか。それに、大学に入るのは、まだ早いと思います。だって、大学の寮は新入生歓迎でかなり性的なゲームもして騒ぐみたいだし(といっても楊枝を銜え輪ゴムを受け渡しする程度の幼稚なゲーム)、今、私が大学生になったら、大学1年と2年の間は、たとえボーイフレンドができてもセックスするのは非合法なんですよ、こんなのあり?って思いませんか? まだ雛っ子ですから。いいですか、オジサン、オバサンたち、わかってくれますか?」くらい言ってほしい、と……神童なら。まさに。
▼独逸ハンブルグ大学の關愚謙先生が信報「愚公専欄」でチベット問題を語る。1950年代に北京中央でロシア語翻訳の専門職にあった關先生は中央政府少数民族政策など具体的に見聞していたが、それは確実なもので、少数民族の中に中央政府毛沢東に対する信頼は大きなものであった。チベットと北京中央も当時は蜜月。反右派闘争も運動は国家幹部に限定したもので少数民族に被害が及ばぬよう通達もなされていたはずだが、実際には青海省で筆者はイスラム寺院で右派批判大会など開かれ、チベットに対する社会主義強要で1956年にはそれへの反発でチベット動乱となり翌57年にダライ=ラマはインドに亡命。この亡命劇、当時の毛沢東の軍指導力を考えれば亡命を防ぐことは可能だったはずで、これはむしろ「逃がした」のではないか、と關先生。關愚謙自身、文革で被害を受け亡命し独逸に旅居すること卅年以上だが、当時、苦学する自分に比べチベットからの亡命者は欧州でかなり歓待され「中国からの独立」が欧州の人々のかなり同情を得たことを指摘。これの最高峰が、まさにダライ=ラマで、關先生はダライ=ラマの亡命当時、かなり同情的であったが、ダライ=ラマが反中国運動のプロ化(關愚謙はこんな言い方はしておらぬが、簡単に言えばそういうこと)する中でかなりその姿勢を疑問視。だが、独逸で国際問題の専門家から「(世界的に注目される平和主義者としての立場にある)ダライ=ラマを生んだは中国政府なのだ」と指摘されたと言う。ダライ=ラマの一挙手一動、その言動に中国政府がかなり神経質に、過敏に反応する。すればするほどダライ=ラマに世界的に同情が集る。「ノーベル平和賞受賞できたことでダライ=ラマは中国政府に感謝すべきだ」というその独逸人の皮肉なコメント。こういう見方も可能ではあろう。だがアタシは個人的にはこういう見方はかなり屈折しているような気がするのだが、關愚謙ほどの碩学でも、中国人としてチベット問題となると、そう簡単にはリベラルに、中立的な立場では問題をとらえられぬのだ、と思わされる。

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