富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-08-23

八月廿三日(木)曇。昨晩、吉見俊哉『博覧会の政治学』(中公新書)読む。先日読了の『万博幻想』が日本の戦後と万博の具体的な分析なのに対して、こちらはより博覧会を「まなざし」からの分析。このテの新書本は序章にその思想の全てが語られていること?々。簡便といえば簡便だが本章がその論証、詳細に位置づけられてしまい本章が物足りなくなる処もあり。で白眉の序章「博覧会という近代」より引用。
博覧会は、その成立の端緒から、国家や資本によって演出され、人々の動員のされ方や受容のされ方が方向づけられた制度として存在したのだ。(略)人々はこのテクストに、自由にみずからの意識を投影する物語の作者として存在しているわけではない(略)。このテクストは、すでに別種の書き手によって構造化され、その上演のされ方までもが条件づけられている。その書き手とは(略)近代国家そのものなのだが、同時に多数の企業家や興行師たち、マスメディアや旅行代理店までを含み込んだ複合的な編成体なのである。しかも、博覧会における経験の構造は、これらの演出家によって一方的に決められているわけでもない。博覧会という場にみずからの身体をもって参加する人々が、この経験の最終的な演じ手としてやはり存在しているのである。しがたって、博覧会とは、書き手としての国家や資本、興行師たちの様々な演出のプロセスと、演じ手としての入場者たちの様々なふるまいが複雑に交錯し、織りなされながら上演される多層的なテクストなのである。
……もう、これで充分というくらい。当然、フーコー的なまなざし。昨日は全国高校野球勝戦あり。この吉見氏の一文はそのまま高校野球にも該当。全国的なイベント。文部科学省(政府)、興行主としての高野連朝日新聞。もちろん「甲子園の熱いドラマ」、今年はまさに決勝での八回裏奇跡の逆転満塁本塁打でメイク・ドラマ。「地道な努力」「やれば出来る」「地方の普通の公立高校生が」と、これで最近の言葉で言えば「元気をもらった」の人も多かろう。これは当然「甲子園という場にみずからの身体をもって参加する人々が、この経験の最終的な演じ手としてやはり存在しているのである」し、球児ばかりか(球児というのも奇妙な造語)応援する生徒から地元民、テレビの観衆まで、このドラマ(テクスト)に何からの思い入れだの。それはそれでいいのだが、今の日本において、国民の関心が一つになる<場>として甲子園はかなり稀。興味深いテクスト。第1回全国中等学校優勝野球大会の開催は1915(大正4)年。明治20年代に近代国家としての<日本>の構築後、全国規模でこの各都道府県の代表が一堂に会し何かを競技する、而も将来の国家を担う旧制中学の若者が、ということで、他にこの全国中学野球大会に匹敵するイヴェントが他にあったかどうか、或いはこれより以前の有無。なぜ野球なのか。なぜ大阪朝日なのか、いろいろ考えるとかなり興味深し。で本日、昼食の約あり昼にFCCに行く途中、ちょいと時間持て余し小雨のなか香港動植物公園を抜ける。Hong Kong Zoological & Botanical Gardensという、この今ではZooと略されてしまう、Zoological & Botanicalという語感に思わず<近代のまなざし>感じる。ちなみにこの公園、開設は1871年で、「恩賜」上野動物園開園の11年前。ヴィクトリア女王君臨。今でも少なからず年寄りが此処を広東語で「兵頭公園」と呼ぶのは、此処が南京条約で英国が香港を正式に清朝より割譲受ける1843年に英国軍代表(兵の頭)官邸があったため。暫くは英国植民地政庁の管轄地で、まさにヴィクトリア朝真っ盛りの1870年代に市民に開放されたことも興味深いところ。近代の始まり。で動物園がなぜに前近代の動物見世物とは異なる<近代>か、と言えば、前近代の見世物は、まさに南蛮渡来の異形なる奇物としての獣がはるばる日の本の国で長崎より遠路遥々、江戸に上がった、と見世物小屋唐十郎ばりの演者の「この機会逃さば一生の不覚、お代は見てのお帰りにぃ〜」と数奇なる(半ば想像の)その獣にまつわる物語に語られるまま、見て「へぇ〜っ」と驚くのが見世物なら、霊長類は霊長類、ネコ科はネコ科ときちんと分類されラテン語の学名まで冠むり陳列されるのがZoologicalな動物園。そうしてみると、たかだか動物園が近代のまなざしのショーケースのよう。で吉見俊哉『博覧会の政治学』は面白い。昼餉はFCCにて珍しくローストビーフとヨークシャープティング。智利のSanta CarolinaのCab Sauv 05年と豪州のBimbadgen RidgeのSauv Merlot 05年を一杯ずつ。昏時早々に帰宅。今日もまだ力んだり額に皺を寄せると目頭が多少疼き、結果、アルコール消毒のみ。モヒート二杯。傷口が痒いのは快方の証左か。昼に重いもの食したので晩はご飯に味噌汁、鱈子とお新香で済ます。
▼14歳だかの少女が中学5年修了でのGCSE(The General Certificate of Secondary Education)に通り飛び級で大学入学許可されたとか話題になったかと思えば、今度は9歳の少年が香港バプティスト大学の数学系に入学の由。話題づくり。またそれに大騒ぎする小市民根性の浅ましさ。江沢民的に「ナイーブ」とはこのこと。陶傑氏がこれを明日かアサッテの蘋果日報でどう嗤うか、が見物。
▼李怡氏が昨日だったかの蘋果日報(随筆)に「慰安婦的更大傷痛」という一文寄せる。米国議会での日本軍の慰安婦非難決議にカナダや和蘭も同調する中で、先日も同紙に海南島慰安婦生存者のルポも掲載されたが、最も被害の大きい中国がなぜ低調で、全人代でも非難決議などせぬのか、と。『中国慰安婦』(青海人民出版社)という本によれば1940年4月に河南省新郷地区王各荘では82名の女性が日本軍により慰安婦として徴用された、とあるが、慰安婦にされたことより更に厳しい日々が待ち受けていた、という。それは同胞からの偏見、差別や政治的迫害。慰安婦にされたことは婦女子本人の罪に非ず、としつつ文革では日本の特務、反党・反社会主義分子の烙印捺され、この地区で397名の婦女子が批判対象となり、内231名が自殺か自殺未遂。その14,563名の親族なども「陰謀集団」とされ、これについては未だに名誉回復されておらず。「日本軍も恨むが、同胞たる中国人も更に恨む」と生存者。日本人による蹂躙は一時的なものだったが中国人同胞によるものは子や孫の代まで続く、と李怡氏は結ぶ。……とこのような記述を日本の保守反動右翼のうち「つくる会」のような連中が知ると「そら見たことか」と中国非難か。べつにこれで日本の当時の罪が軽減されたわけでないのだが。
マカオに誕生の新しい賭場、The Venetian Macau Resort Hotelについて。規模は人造建造物としては万里の長城和蘭のアールスメール生花市場に次ぐ大きさ。フロア総面積ではB-747旅客機が248も駐機でき、香港国際空港より広大。宴会場は6000人収容、香港展覧会議中心の5倍の広さ。15,000人収容のスタジアム、4,100台のスロットマシーン、850台の賭場台に、お買い物は350店舗で。お子様お断りのプール(これは偉い)はシロナガスクジラが90頭、入れる由。客室は3,000室で、このホテル開業前のマカオのホテルの総客室数の65%に相応。……とまぁ破格。とにかく客を飽きさせないアミューズメントが売り物だが、ふと、このホテルに3,000組の大陸の田舎漢が宿泊し大騒ぎ、と思うと、1970年頃の伊豆のハトヤホテルどころの騒ぎではなし。ぞっとして近寄りたくもなし。
▼八月十六日の信報に歴史家の高添勉君が「無碑可紀 有史待尋」という一文を寄せている。「数年前、日本人の友人に求められ、彼らが香港の日本軍占領期における戦争史跡めぐりに同行したことがある」という書き出し。これは和仁廉夫さんによるものでアタクシも同行。そこで、この史跡めぐりの参加者らは日本政府が戦争責任の問題で曖昧な態度をとることに不満をもち、自分たちが自分の目で戦争の歴史を見て事実をとらえ、という姿勢なのだが、と紹介した上で、但し香港で自分たちにそのようなことは可能か?と高君は自問する。なぜなら香港にこの日本軍占領の三年八ヶ月に生命を失った市民の慰霊碑すら存在せぬのだから、と。香港には第一次世界大戦からの戦没者の慰霊碑こそあるが、これは英国軍人と地元の華人公務員の殉職に対するもので、戦時中に命を失った市民は祀られておらず。市民が三年八ヶ月にいったい何人、命をおとしたのか、も正確な数字は不明。高君の概算では、1941年の香港の人口は難民も含め160万人。1945年の日本降伏時に人口は60万人にまで減っているが、100万人の人口減の全てが戦死者ではなく、当時、日本軍が中国人に対して大陸への帰郷対策を強化しており、また香港脱出の難民もあり、かりに1割が戦死者としても10万人とするのは楽観的なのか、どうか、と。戦時中の香港での様子を知る者も高齢化が進み、それを懸念し最近、当時の生存者から聞き取り調査勧める高君によると、当時を知る市民が異口同音に指摘するのは、とにかく飢餓、疾病などで路上の行倒れの多かったこと。路上に行倒れの死体があってもけして珍しからず、その衣服を剥ぎ売り払う者も。また、日本軍の憲兵が市街で「犯罪人を処刑」する場面の目撃も少なくない。犯罪といっても窃盗などの軽犯罪、また日本軍が禁止していた山での芝刈り、などで殺害。こうした戦争の記憶。香港では最近「集體回憶」と称し、ここ半世紀の建物や古い路上の街市など保存運動に関心集っているが、日本軍による占領期の軍事史跡などに対して保存の声はけして高からず歴史の忘却の中に埋もれているのが現実。戦後建てられた警察署など史跡に指定するよか、戦争時代の歴史をきちんと後世に残し、その犠牲になった市民の追悼碑の建立など検討するべきではないか、と。確かに。

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