富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-08-17

八月十七日。夜半より明け方まで下雨沛然。さまざまなことあり。夕方客人を迎えに空港へ。突然の快晴。雑事済ませ晩に客人お連れして湾仔の杭州酒家に食す。紹興酒を乾杯でお猪口に少し。同席の食通A氏曰く滬菜で雪園飯店は「北角が」味が落ちたのだと思ったが銅鑼湾でも駄目であった、と。然り。余はかつて銅鑼湾の店で「冷えたオコゲ」出され呆れ果てたり。唯靈氏は雪園を未だかなり誉めるが……。食後、松竹映画『わが生涯の輝ける日』見終わったZ嬢と湾仔の地下鉄駅ホームで待ち合せ。吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、で出演が森雅之山口淑子滝沢修宇野重吉というだけでたまらない昭和23年の映画。山本嘉次郎著『洋食考』少し読む。
嘉次郎監督のこの名著。すまいの研究社刊、昭和45年の初版本。佐々木久子女史により昭和30年春に創刊された雑誌「酒」。創刊から1年、部数低迷し廃刊か、という時に火野葦平が救いの手を差し伸べ一流の粋人が酒肴にまつわる文章を読めることで趣味の雑誌として定着し五百余号。平成9年休刊。その中でも嘉次郎監督の連載は名文ばかり。嘉次郎監督といえばアタシにとってはエノケン映画。とくに『エノケン近藤勇』はいま観ても笑いを越えたセンスの良さ。で銀座采女町に生まれ実家は飲食業、の慶応ボーイ、1920年に映画『真夏の夜の夢』で岡田嘉子と共演して俳優デビューしたほどのナイスガイ。もうこれだけで「書いた文章は面白そう」。読み出すと、その文章の全てが面白く全てを書き写したくなる。が自戒。それでも連載第1回の「子供の頃の味」をかなり長めに引用すると、ソースというのも、最近は「ダブダブと掛けなければ用を足さないように出来ている」が「むかしのソースは、塩味は食塩でとり、香りつけに、ちょっぴり掛けたもの」という持論を披露したあとで
父は私をよく旅行に連れて行ってくれた。商用の旅行だが、一番の楽しみは食堂車に行けることだった。食堂車の一車輌手前くらいから、洋食の良い匂いが漂って来た。
父は晩酌では、いつも狼や猫の絵の描いてあるスタウトを飲んだ。シャンパンのように瓶の口が針金でカラメてあった。食堂車でもスタウトを注文した。そして、体のためになるから、少し飲んでみろとコップについでくれた。ニガイからガブガブ飲むなと注意した。怖わごわ口にすると、ニガさより、こんもりとした重厚な香りが鼻を衝いた。外人のブカブカの外套に包まれた感じだった。ほとんど一息に飲んで「もう一杯」といったら、父は眼をとがらせて「いい加減にしろ」と叱った。
たしか六歳頃で、これが私の酒歴の第一頁である。それにしても、いまの銀座の一流と称する洋食屋でスタウトを注文すると、ボーイがスタウトと申しますと? と問い返えす。ひどい世の中になったものだ。
父は晩めしのたびに「春さきの鯛のサシミと冬場の平目のサシミが天下一品だ」などと私たちに講義した。父のいうことはすべて本当だと信じた私は、学校で君たちは何が一番好きかと先生から問われたとき、みんなは卵焼とか、アンパンとか答えていたのに、私は春先の鯛のサシミ、冬場の平目のサシミと答えて
、みんなに笑われたことがあった。(略)
シュウクリームを買ってもらって、母がケチケチして一つしか呉れないので、いまに見ろ、大人になった直径三尺ぐらいのシュークリームを作らせて、頭を突込んで食って見せるぞと発奮したこともある。
……いやいや、敬服。こんな人が食べ物と酒について毎回さまざまな物語を語るのだから面白くない筈なし。
▼嘉次郎監督の文章から一つだけ。蕎麦について。「蕎麦屋で酒を呑む」ことが通、と思われている。事実、その通り。遅い午後、のんびりと蕎麦屋で卵焼や鳥ワサなんかで酒をちびちび飲んで最後に蕎麦で〆る、のが通だ、と思われてる。だが嘉次郎監は「ヌキ」なんてのはダメ。ヌキとは天麩羅蕎麦なら「天麩羅蕎麦の蕎麦抜き」。高橋義孝先生なんかでもこれをやるから通だと思われているがアタシも久が原のH君となぜヌキがいいのかわからない、と話していたが、さすが嘉次郎監督、あんなもの味が強過ぎてダメ。で嘉次郎監督は何を肴に蕎麦屋で酒を飲むかといえば、蕎麦そのもの。蕎麦屋で「お酒とざる」と通す(注文する)とまずお酒が出て、酒が済んでから蕎麦になるので蕎麦が酒の肴にならぬ。「ざるで、お酒」と通すと蕎麦とお酒が一緒に出てくるとか。ただ嘉次郎監督の世代でこれを並木の薮でやっていたら並木の老主人に「近ごろは蕎麦で酒をやる方が少なくなりました」と言われたそう。なるほどねぇ、と感心するばかり。嘉次郎監督の蕎麦の話はまだ続く。蕎麦屋の符丁。「天ツキざる一マイ」は天麩羅蕎麦が二つとざるが一枚。「ツキ」は二つの意。「月見ガチ、もり五マイ」は計5つだが月見の「勝ち」で、つまり3:2で月見蕎麦が三つでもりが二枚。「マクで願いまして」は「芝居の幕」のことで一段つける、から「別のお客さん」の意。であるから応用問題になるが「天ガチおかめ三バイ、マクでねがいまして、タヌキとキツネ一杯、そば台で」は「天麩羅蕎麦二つにおかめ一つ。改めて別のお客はタヌキとキツネ一つずつで蕎麦でお願いします(うどんじゃございません)」となる。……いいねぇ、この世界。そして「そば湯」について。そば湯を「湯桶」なんて言うのが通、だが、蕎麦湯は「ぬき湯」。そば湯を入れる木製の器が湯桶でそば湯=湯桶に転じたが、桶なら丸くていいが「蕎麦屋の湯桶は安物だから」四角で、隅(角)に口がついている。それで「蕎麦屋の湯桶ぢゃあるまいし、隅のほうから口を出すな」なんて表現もあり。本来の蕎麦の美味さは、北海道でも会津でも九州でもいい、火山灰地の痩せ枯れた土地でいつも風に吹かれ霧にまかれたところが美味い蕎麦の条件。苛め抜かれて蕎麦が美味くなる。そういう産地で挽きたての蕎麦粉をすぐに打ってすぐに茹でて水でサッと冷やしたのが一番美味い。産地の農家では「出汁の良し悪し」なんて不要。痩せ枯れた土地には細いネズミの尻尾のような大根しか出来ない。そのおろし汁はめっぽう辛い。それを自家製の味噌か生醤油で割る。葱もトウガラシも不要。「そばと大根とは、ふしぎに合うものである。昔のそば屋では、かならず大根おろしを出したものである。大根おろしの汁でそばを食うと、すこし食いすぎたと思っても、間もなく腹が減ってくるものである」と嘉次郎監督。「薮系のたしかな店では、ざるはない。ノリをかけることをきらう。そばの香りの邪魔になるからである。ざるのかわりに、せいろうという。もりそばを盛るウツワである。あれはむかし、そばのツナギの知恵のないころ、ゆでないで、蒸したその名残りなのである」と、この話を結ぶ。むしょうに、蕎麦で酒が飲みたくなった。
▼昨日追記。その一。怪我して出血に足も竦みつつ「すわ病院へ」と思った時にちゃんと厚着。我ながら冷静。映画館と病院は冷凍庫の如し。もう一つは養和病院にて麻酔の同意書に署名させられ、目頭縫うだけでも全身麻酔か、と思ったがさすがに部分麻酔。幼稚園児の時の深い切り傷で縫う際に泣き叫んだ記憶あり。当然、麻酔なし。香港の麻酔の感覚は日本で麻酔なし=部分麻酔、日本で部分麻酔=全身麻酔、日本で全身麻酔=いったい何だろう……阿片?といった感じ。
日本航空、経営不調だの大変だが、今年の私の疾病の如く「ついていない」のは機内誌でも一緒。日本航空のエグゼクティブ機内誌Agora8月号ぱらぱらと頁めくっておれば「旅への一冊」という見開き頁で山岡荘八徳川家康』紹介するのは「白い恋人」でお馴染、石屋製菓の社長。「創意工夫」だの「振り返ると、どれもこれも自分で考え出したアイデアを飽きることなく繰り返してきた」といった文句が全て悪い方に読めてしまうから。

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