富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月十六日(木)午後より大雨。日本は酷暑。香港は気温摂氏廿六度と涼し。本日「書禍」あり。狭い書斎の本、書禍より溢れんばかり。未読と再読期し本のみ残し売却処分と考え整理始める。高い処の書籍整理する間に脚立から重心崩し倒れ上手く狭き床の空間に倒れたつもりが書禍の棚に目頭を強く打つ。一瞬、痛みもなく九死に一生を得たかと思ったが瞼にたらりと、手で拭えばかなりの出血。指の感触で一寸ほどだが深い切り傷とわかり鏡を見ると身が縮まってしまいそう。玉に瑕か。血が止まるのを待ち消毒して応急措置。近隣のC医師の診療所も傷を縫うくらいの外科対応する筈と訪れるが生憎、三時間の昼休み。診療所並ぶビルのフロアだがどの診療所も朝と夜遅い分、昼休み長く一時間以上も待てず公立の東區医院(
Pamela Youde Nethersole Eastern Hospital)にタクシーで駈ける。救急で登記。初期対応の愛想悪い看護婦に問診され「きちんと首を振らぬと、はい、か、いいえ、かわからぬ」と苦言され「目頭に傷があり片目瞑り頭を傾げる患者に、その言い方はないでしょうに」と諭す。傷も見ぬまま応急措置で腕に化膿防止の注射。初期判断は「半救急」で待つこと暫し。傷が痛むので診療を早くできぬか、と請う。「半救急」はあの掲示が見えぬか、今、80分前に登記の患者の対応が、とその看護婦が言うので、そりゃわかるが内科と外科を一緒にするな、こっちは傷が痛み、だいたい傷口も見もせず(アタシが応急措置したバンテージ貼ったまま)どうして半救急と判断するのか、と苦言し返す。傷口も見ぬのか、と言ったものだから相手は「見ない」と売り言葉に買い言葉。拉致開かず。どう考えてもこのまま二時間待たされてはたまったものぢゃない、と診断こちらから願い下げ、病院を出てタクシーでHappy Valleyの養和病院へ。怪我してからすでに小一時間近く。養和病院、さすが私立高級病院で緊急で対応即刻。病院へ着き一分後には看護婦に呼ばれ主任看護婦が「まずは傷口を見て」血圧や体温など測りながら外来のちょうど手すきの医者が出てきて「縫う」と判断し暫し待って診断。外来用の簡便な手術室に通され麻酔(さすがに全身麻酔に非ず……笑)して針縫処置。医者と雑談しながらで結局7針縫われる。……が日本なら3針くらいぢゃないかしら、この幅一寸の傷なら。一週間後に抜糸、鎮痛剤あげるから、お酒は控えてね、と(辛いが)。大きなバンテージ貼られ赤城宗徳君の如し。今年はトラコーマに胃潰瘍、でこの傷でもう二ヶ月くらい休肝。大厄はとうの昔に済んだはずが。帰宅して珈琲沸し昼も食しておらぬのでチョコレート頬張る。途中になった本の片づけ済ます。本来なら今日のうちに古書店に本売り払うはずが本は大きなカバンに詰める。凡そ六、七十冊。書架少しすっきりとして本の陰から本も現れ「あら、こんな本もあったか」と喜んだり。五組ほど同じ本が二冊あり。音楽CDでもそうだがすでに購入のものを「持っていない」と思って又た購入。だいぶ片づいてもまだ読んでない本がこれだけ……と我ながら半ば呆れつつ日本の実家に自宅に前回の帰省以後、本屋から届いた本が数十冊貯まっていると思うと、さすがに少し書籍購入を手控えようかしら、と思う。自己責任だが、もはや書禍。日本にいたらきっと文庫本一冊すら手放さぬだろう。築地のH君の家は屋根裏の倉庫に十代からの書籍だの満載で、最初から重荷に耐えるような建築もさすがに梁が軋んだと話を聞く。庭に書庫を建てた知人もあり。
肉体は悲し、ああ、われは すべての書を讀みぬ   マラルメの「海の微風」より
いつかは蔵書を手放せねばならぬ時あり。いぜん久が原のT君と書架に?外、荷風露伴の全集があればそれでいい、と話したが、欲を言えばこれに折口信夫、読物で馬琴があれば良い。紅葉はアタシには人生最後まで残る作家だが全集といっても小学館で日記含めても三冊揃。悲しくもあり、寝たきりになり枕元に置くには良いか。晩にカレーライス食す。先日購入の廉価版ロストロポーヴィッチのチェロ名演集。録音は劣るがチャイコフスキーの「ロココのテーマによるバリエーション」が1960年のソ連国家シンフォニーオーケストラでグラズノフのチェロとオケのための吟遊曲が1949年のソ連国立シンフォニーオーケストラの演奏。浅学の余にはState SOとNational SOがどういう関係なのかもわからぬが、いずれにせよ両曲とも愉しく聴く。麻酔も切れ鎮痛剤服んでもさすがに傷が微かに疼き臥床し読書。いぜんより読もうと思っていたロジェ=マルタン=デュ=ガール(M.D.G.)著『アンドレ・ジイド 1913年より1951年に至る覚え書』読む。昭和28年に文藝春秋新社より発行の初版本。福永武彦の訳というだけで、どこか安堵。訳者あとがきでこの翻訳は夷齋先生より勧められしもの、とあり。さすが夷齋先生。ジイドこそ此処で紹介の必要もなかろうがマルタン=デュ=ガールは『チボー家の人々』の作者。確かジイドより13歳だか若く1913年に40代ですでに巴里の文学界で彗星の如き存在であったジイドに出会った二十代の文学青年にすぎぬM.D.G.が小難しいジイドに気に入られ文学の先達との親友のような付き合いをジイドの死まで続けた断片録。M.D.G.の日記からの抜粋をもとにジイド自身の日記からの引用もM.D.G.による原註にあり。興味深い記述の一つにジイドの日記(1936年10月2日付)からの引用で
ロジェは、どんな心理的問題に対しても、(小説家としてでも、いや、寧ろ、特に小説家として)例外的なものはことさら排除する、少しくらい例があっても、やはり排除する。彼の登場人物達が少々月並なのは、そこに基因する。
とあり。M.D.G.自身が自分へのジイドによる批評を引用とは。だが『チボー家』の読者としては、このジイドの指摘は「ご尤も」と膝を打ちたいほどの妙。『チボー家』の物語で主人公のジャックはじめ全てにこの指摘当てはまる。だが逆に個性の強いキャラばかりは『モンテクリスト伯』のような大衆小説になってしまい『チボー家』の荘厳さは出ないの鴨。ちなみにM.D.G.は『チボー家』の第7話?「一九一四年夏」で1930年代にノーベル文学賞受賞しておりジイドの同賞受賞は1947年。ジイドのほうが名声得たのはずっと早いが「悪徳の」文士に対してM.D.G.は『チボー家』の反戦、平和志向により1937年という「きな臭い」時代に同賞の対象となったもの。
▼香港の公立病院、危篤や重傷で救急車で運び込まれれる場合は対応良い。寧ろ、そういう深刻な場合は間違っても私立総合病院は避けるべき(外科の担当医不在などあり)。だが香港の公立病院の問題は、専門医の予約済みの診療以外は「全て緊急」扱い。緊急も「危篤」「重傷・緊急」「半緊急」「その他」にわけられ、通常の風邪や眩暈、下痢など軽い症状では何時間も待たされ、半緊急でも本日の我が症例の如く不愉快な職員にあたると、このハメに。
▼香港鼠楽園開業第二年目の入場者数は目標5.5百万人に対して4百万が実績とSCMP紙伝える。一日の入場者数は3.4万人収容可に対して1.1万人と閑古鳥。今後入場者激増も見込まれず閉園も視界に入るか。ディズニーの策略にまんまと引っかかり我々の税金浪費の政府高官は誰も責任とらず。愚か。

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富柏村写真画像 http://www.flickr.com/photos/48431806@N00/