富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2007-04-03

四月三日(火)このところかなり忙殺され続け晩に滑り込みで香港文化中心で映画『呉清源』上映に間に合うが入場して「はっ」と気づけば今晩は上映前に何だか表彰式あり急ぐ必要なかった、と後悔。二回のサークル席の末端の二人掛けに坐ると暫くして係員が「空けてくれぬか」とあたしに尋ねる。何かと尋ね返せば車椅子の者がいるので、と。車椅子から降りて座席に座るの?と尋ねると、そうじゃなくて、ここ(とあたしの二人席の横の空間)に車椅子の観客が来る、と。それじゃあたしが退ける必要ないだろうに。そもそも車椅子の指定席にもなっておらず。車椅子がそこに来ても問題ないから、と座席譲ることを拒む。表彰式の途中で車椅子の客が来る。やはりあたしの隣席の前に車椅子のままで位置取り。肢体不自由らしい。連れがあり、一瞬、介護人が付いてきたのか?と思ったが、多少言語に乱れのある人で車椅子の彼の友人らしい。この車椅子の若者の介護ではない。あたしが席をその友人の方に譲ってやることも一案だが、健常者とて自由席で隣の席が空いていない場合に離れて坐る場合もある。身障者だから、と気配りするのは、あたしはそれはまた違う意味で偏見であると信じる。であるからそのまま。結局、何ら問題なし。あたしがこういうことが気になるのは今でも覚えているが1985年だったか筑波で科学博なる催しあり入場券をもらいナントカ館の入場制限でかなり並んでいた夏の日。車椅子の参観者が現われたら長蛇の列は実は階段があるため車椅子用のスロープから優先で入場。最初からスロープがない入口にできるはずで障害があろうがなかろうが炎天下で待たせない知恵があればよかったはず。『呉清源』の映画の物語は予想以上に璽光尊の話の部分多し。終戦直後に璽光尊に従いて、の呉清源の放浪の旅。終戦直後に璽光尊に従いて、の呉清源の放浪の旅。新潟だったか彷徨える教団本部への警察の捜索の際に璽光尊を警察に渡さぬと弁慶の仁王立ちの如く立ち振る舞う巨体の男がちゃんと出ていたが、あれが実は引退直後の横綱双葉山だとわかる人も今となっては少なかろう。ここまで踏み込んで呉清源の生涯描きながら戦後、在日華僑との関係もあり呉清源が日本人の妻ともども日本国籍放棄し清源は中華民国籍、夫人は無国籍となり日本棋院を除籍となったことや戦後の暫くの間は読売新聞の専属棋士であったこと、1952年に台湾訪問で大歓迎受け「大国手」の称号を授与されたこと、その台湾で当時10歳だったの林海峰が後の師匠となる呉清源に出会ったことなど、できればこのへんも描いてほしかったところ。監督が田壮壮で台湾の描き方は微妙だった、かも。呉清源役演じた張震はデビュー作である1991年の『?嶺街少年殺人事件』の主人公・小四が今でも印象的。この『?嶺街』の楊徳昌監督は『非情城市』で一躍時の人であった侯孝賢の作風が今ひとつ好きになれずにいたあたしにとっては救いであった。いずれにせよ台湾映画がとても良かった時代。映画終って晩遅く、定期購読のアサヒカメラ、これまで銅鑼湾そごうの旭屋書店で受領したが銅鑼湾歩くのも旭屋に上がるのも難儀で今月から太古のジャスコにある旭屋で受け取る。晩も10時半まで開いており楽。銅鑼湾の店では毎月、取り置きの書棚で本を探すのも大変であったが此処では「アサヒカメラ、今月から此処でなんだけど」と言うとさっと出てきた。アサヒカメラでは木村伊兵衛賞朝日新聞の後援だかになったからかこれまでの特集記事あり。じっくり読む。