富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-12-16

十二十六日(土)教育基本法改正。万歳。嗚嗟、晴れ晴れしき氣持ち。つひに國民が切望したる此の改正が相成つた。祖國日本の爲に戰後の暗雲を晴らすべく、此の改正に盡力したる自民黨と公明黨に敬意を評しやう。今日から、此の基本法に則つて新しき日本を創建しやう。教育の荒廢もいぢめもなき幸せな明日を。……なんてね。戦後がまた一つ終わる。この教育基本法について制定にあたった南原繁・東京帝大総長は「今後、いかなる反動の時代が訪れやうとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換へることはできないであらう。なぜならば、それは眞理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めやうとするに等しい」と語ったが、自民党憲法改正とならぶ党是であるにせよ、それに加担した公明党の責任は大。教育基本法「改正」しか念頭にない人たちと、「改正で教育も良くなるんじゃないか」と誤解する人たち、なにも自分には関係ないと考える大多数の国民の総意。朝日は社説
戦後60年近く、一字も変えられることのなかった教育基本法の改正に踏み切った安倍首相の視線の先には、憲法の改正がある。この臨時国会が、戦後日本が変わる転換点だった。後悔とともに、そう振り返ることにならなければいいのだが。
とただ杞憂のみ。教育基本法改正に反対、と言えず。産経に期待したのだが社説の題こそ「教育基本法改正 「脱戦後」へ大きな一歩だ」としつつも、この人たちは「占領の屈地」以外何ら思考力は持ち合わせておらず。
一部のマスコミや野党は愛国心が押しつけられはしないかと心配するが、愛国心というものは、押しつけられて身につくものではない。日本の歴史を学び、伝統文化に接することにより、自然に養われるのである。学習指導要領にも「歴史に対する愛情」や「国を愛する心情」がうたわれている。子供たちが日本に生まれたことを誇りに思い、外国の歴史と文化にも理解を示すような豊かな心を培う教育が、ますます必要になる。形骸化が指摘されている道徳の時間も、本来の規範意識をはぐくむ徳育の授業として充実させるべきだろう。(略)教育行政について「不当な支配に服することなく」との文言は残ったが、教職員らに法を守ることを求める規定が追加された。国旗国歌法や指導要領などを無視した一部の過激な教師らによる違法行為が許されないことは、改めて言うまでもない。(略)安倍晋三首相は、日本人が自信と誇りをもてる「美しい国」を目指している。国づくりの基本は教育である。政府の教育再生会議で、新しい教育基本法の理念を踏まえ、戦後教育の歪みを正し、健全な国家意識をはぐくむための思い切った改革を期待する。
と宣う。結局この新聞が生まれた背景にある「祖国の崩壊を企図する革命的共産勢力の排除」以外なにも考えられず。そもそも法律で規定しなければ育まれぬような愛国心なんて所詮、嘘っぱち、なのだが、産経は「それで禄を喰らう」のだから致し方なし、か。で傑作は読売新聞。読売の読者のどれだけが社説なんて読んでいるのかしら。冒頭から
教育基本法が一新された。1947年(昭和22年)の制定から60年、初めての改正だ。
と、まるで長嶋茂雄の「初めての還暦を迎え」的なこの晴れがましいノリ。
見直しの必要性を説く声は制定の直後からあった。そのたびに左派勢力の「教育勅語軍国主義の復活だ」といった中傷にさらされ、議論すらタブー視される不幸な時代が長く続いた。流れを変えた要因の一つは、近年の教育の荒廃だった。いじめや校内暴力で学校が荒れ、子どもたちが学ぶ意欲を失いかけている。地域や家庭の教育力も低下している。現行基本法が個人・個性重視に偏りすぎているため、「公共の精神」や「規律」「道徳心」が軽視されて自己中心的な考え方が広まったのではないか。新たに家庭教育や幼児期教育、生涯教育などについて時代に合った理念を条文に盛り込む必要があるのではないか。そうした指摘が説得力を持つようになってきた。この6年、基本法改正については様々な角度から検討され、十分な論議が続けられてきたと言っていいだろう。その中には「愛国心」をめぐる、不毛な論争もあった。条文に愛国心を盛り込むことに、左派勢力は「愛国心の強制につながり、戦争をする国を支える日本人をつくる」などと反対してきた。平和国家を築き上げた今の日本で、自分たちが住む国を愛し、大切に思う気持ちが、どうして他国と戦争するというゆがんだ発想になるのだろう。基本法の改正を「改悪」と罵り、阻止するための道具に使ったにすぎない。
と産経もタジタジの勢い余った論調。基本法の改正による教育の再建より反対勢力への罵声ばかり。で本日、机まわり雑多に散らかしたものを一つ一つ片づけるうちに昼過ぎる。新聞雑誌の類ひかなり整理して靴磨きまで済ませ午後、九龍に所用済ませ早晩に尖沙咀。ペニンスラホテルのバーに独り飲む。ドライマティーニ二杯。バーであるのに子どもが駆けずり回り保育園の如し。旧知の女給に「子どもが入れるの?」と尋ねると一応午後6時まではお子さんも入れますけど普通は連れて来ないですよね、と呆れ顔。この子ども四人も連れてバーで粗野なるソーセージ料理など食す母親二人が何人かは下品な英語で一聞瞭然。子どもがいようがバーであるからパイプをモクモクと吸い野蛮人にせめてもの抵抗。但し一月からは昼でも十八歳以下は入場させぬ由。件の禁煙条例発効でバーを喫煙可で延命するための措置。日本料理・京笹。Z嬢と会う。いい意味で普通の居酒屋の京笹も「マグロ、アボガドと山芋もカルパッチョ」なるものをフュージョンっぽい盛りつけで供すのが可笑しい。この食肆、お通しだけでも白飯が喰えそうなくらい肴が美味い。いつもコンサートや映画前なので長居したことないが七時半くらいには満席の繁盛。隣席に彼女連れのオニーチャンが吸えもせぬ煙草を蒸かして灰皿に煙草を置きっぱなしにするから煙くて仕方がない。煙草を吸うなら吸うでいいからきちんと吸っていただきたい、と思う。
十六歳 煙そうに吸う ハイライト 見よう見真似の 寺山修司
である。あと二週間の我慢。今晩は昨晩に続き香港粛邦社主催のコンサートでGary Graffmanのピアノ演奏拝聴。 Gary Graffmanは若くしてホロヴィッツゼルキンに学び1928年生まれであるから78歳。30年近く前に右手が事故でピアノ演奏できなくなり、その後、後進の指導にあたりつつ左手のみで演奏活動。今晩はブラームスによる左手のための編曲によるバッハのシャコンヌ。そして昨晩と同じLCOからバイオリン、チェロを招いてエリック=コーンゴールドのSuite for two violins, cello and piano left hand 作品23は戦争で右手を失ったパウルヴィトゲンシュタインが沢山の作曲家に依頼した左手のための楽曲の一つの由。休憩はさみスクリャービン前奏曲1番作品9、夜想曲2番作品2。続いてホロヴィッツのお師匠さんだそうなフェリックス・M・ブリューメンフェルド(1863?1931)のエチュードhttp://www.maxreger.com/(1873?1916)のエチュード、レオポルド=ゴドフスキーの左手のための編曲によるショパンエチュード。左手ためのピアノ曲でも、例えばプロコフィエフのピアノ協奏曲第4番であるとかラベルの左手のためのピアノ協奏曲なら聴いたことあるがバッハのシャコンヌショパンエチュード除いて左手どころか曲としても初めて聴く曲ばかり。日本でなら館野泉さんがシャコンヌスクリャービンの曲を演奏しているはず。でグラフマン先生のピアノ、左手だけで本当にここまでメロディーのフレーズと伴奏を見事に明確に音質までかえて弾きこなす器量。舞台近くで拝聴したが左手の薬指がどう主旋律を奏でているのか、複雑な手の動きの中で見当もつかず。

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