富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-12-04

十二月四日(月)税金支払ふ。期限こそ來年一月と四月の二回なれど、どうも請求された状態にあることが嫌。いつも背後から私服警官に尾行されてゐるが如し。早期支払ひなら一割引でもしれくれゝばいゝが、せめてもの利益還元でクレジットカードで支払いマイレージポイント得る魂胆。日本は廿二世紀くらゐになつたらクレジットカードで納税可、かしら。ずつと前から気になつてゐたことの一つに香港の日本人墓地の変遷、あり。Happy Valleyの香港(紅毛)墳場(HK Cemetary)の高台の一角が通称「日本人墓地」と言はれてゐるが元々の日本人墓地は銅鑼湾の掃桿埔、今のラグビーセブンスなどでお馴染の香港スタジアムの近くにあり。1910年に当時の日本の在香港領事から香港植民地政府に日本人のための火葬場と墓地建設の要望が出され(余は香港歴史アーカイヴの資料で検証済み)1910年代といふ日英の蜜月期、英国側の便宜供与受け掃桿埔に火葬場と墓地が設けられる。香港の法事は明治から淨土真宗が取り仕切り、大谷光瑞師が訪港の際に寄付金を頂き萬霊塔建てたのもこの地。その掃桿埔の一帯が醫療施設など建設されることゝなり日本人墓地は現在のHappy Valleyの墓地の一角に移転させられるのだが、それがいつたい何時だつたのか不明。いろいろ資料も探したが検討つかず。今日、ふと、その掃桿埔の地にある東華東院に少なくとも病院設立の年月がわかるかと思ひ尋ねてみると、すんなりと七十五年前、と電話に出た職員の答へ。今年が偶然に創立七十五周年の由。といふことは開院は1930年代初頭。香港の歴史家・高添強君から頂いた写真に湾仔で雜貨商営んでゐた日本人三浦某氏の葬儀の記念写真こそ、この掃桿埔の火葬場が写った(おそらく現存するたつた一枚の)写真。そこに大谷光瑞揮毫の萬靈塔も写る(現在はその塔はHappy Valleyの墓地にあり)。高君はこの葬式の写真を1930年頃、と推測したが、この三浦氏の葬儀の一、二年以内に墓地移転となつた、といふこと。墓地は1912年くらゐから廿年間、掃桿埔に存在した、と思はれる。晩、帰宅の折に十四夜の月を愛でる。帰宅してライム一つ搾つてウオツカライム飮む。すでに愛機となつたエプソンR-D1s用の革カバーEpson直営のオンライン販売に注文し実家に届き母が送つてくれる。ますますR-D1sが好きになる。晩飯は出し汁に大根おろし加へ韮と豚肉を鍋する。菊正宗一合半。アサヒカメラ12月号読む。特集はつひに「M8から始めるライカの世界」。ライカはやっぱり銀塩でせう。富士フィルムがデジカメの時代に敢へてKlasseといふフィルムカメラ発売。一見いわゆるバカチョン機だがシャッタースピードから露出補正まで装備して95,000円とお値段もなかんか。明らかに60歳定年迎へる団塊の世代狙つたカメラ機か。
▼米国の先の中間選挙イスラム教徒として連邦議会で初めて下院に当選した議員が議員就任をイスラム教のコーランでするとして反発招く。米国は憲法で信教の自由保障するが議員などの宣誓はキリスト教で聖書に手をのせるのが慣例。保守系の言論人が「米国の文化を壊す」だの「下院議員を辞すべき」と発言。米国はキリスト教の理想実現の国か。
住基ネットで意見判決だした大阪高裁判事が判決から三日後に自殺。神戸地裁判事であつた六年前には尼崎公害訴訟でも患者の訴へ認めた、所謂「市民派」判事。まさかロシア人諜報員の如く毒殺ではあるまいが……。

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