富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-11-28

十一月廿八日(火)人民元切り上げUS$1=7.84となり香港ドルとの換算はついに1:1の時代到来。1990年だったか某日銀の方が余の財布に人民元札があるのを見て「あ、紙屑」と冗談言われたことふと思い出す。畏友O君とメールでレンジファインダー談義。なぜ「プリンタのエプソン」から光に対し守備範囲の広い(ダイナミックレンジの広い)写真機が生まれたのか?、O君曰くスキャナは(さらにはコピー機も)カメラそのもの。レンズがあって像を読み取り現像まで。そして一眼レフとの大きな違いは撮る側の気分も異なるが何よりも撮られる側の気持ちの大きな違い。被写体が「はい、撮られますよ」と準備しての記念撮影やらポートレートなら一眼レフのほうが「その気になる」かもしれぬが、それを除けばレンジファインダーのほうが構えない自然な有様を撮れること。その対象が人間や動物に限らず、風景であっても、なんて言うと何やら超心理現象講説になってしまうが、現実的には一眼レフより「不穏な動き」感が少ないことは確か。だからストリート・スナップにはレンジファインダーのほうが向いている、という結論。O君曰く「一眼レフのレンズの出っ張り。あれは男根ではないか」と。それは一般的には禍々しいものだが特に女性ポートレートにおいては男根的なその本質が効果的に、攻撃的に発揮され、とO君。御意。日本からN氏来港。戦前、小学生時代を香港に住まい当時の貴重な資料お持ちで、当時の話など何度かお聴きする。ご尊父が湾仔利東街で地元民相手の雑貨商営む。利東街は大規模な「再開発」直前で立ち並ぶ老朽化した建物は取り壊し寸前。晩にZ嬢と三人で中環の?記に食す。蛇羹もいいが数日前に食したばかりなのに羊??、それも?記が「古法羊??」と呼び値段もなかなかなので期待して注文。頗る美味(「?」という字、これまで牛南麺なんて綴っていたが「?」という字を中国語から引いてくればいいんであって、これからは牛?麺と正字で綴ろう)。N氏に或る歴史編のDVDを差し上げ、それを見るためにN氏の投宿されるRitz Carlton Hotelの部屋にお邪魔する。アップグレードの特典あり瀟洒なSuite部屋。ヴィクトリアハーバー一望。N氏はMandarin Orientalに常宿されるが改装後の人気で部屋がとれず、の由。日本では「新装マンダリンオリエンタルに泊まる香港三泊四日の旅」の如きパッケージ旅行があった、とN氏。いつもお一人でダンディなブレザーの胸ポケットには素敵なハンケチ。世田谷は等々力のお住まいから「自動車を雇って」成田に向い、ホテルはマンダリン常宿、手持ちのトランクも年代物と全てに紳士的。戦前、当時の香港日本人小学校に学び、満州事変からは香港でも反日感情高まり下校の際に地元の子に石を投げられるなどひどい目にあった、とN氏。日本が中国で「ひどい事」をして日本は何ら被害もなく香港で日本人の子がその竹篦返しを喰らう。今になって思うと満州事変からの情勢不穏な折に小学生が香港で一人で学校から帰宅の途についていた、というのだから、それが、当時は日本人にとって満州事変からの中国侵略がけしてそれほど深刻なものとは認識されていなかったことの証左、とN氏と語る。香港に於いてすらそうだったのだから日本国内での認識など言わずもがな。
▼廈門大学が経営学などの学生にゴルフ必修とした愚行について先日綴ったが海南島は観光客誘致のためゴルフ場を現在ある18ヶ所から今後5年以内に20ヶ所更に増やす計画。島じゅうゴルフ場になりそうだが、それでも島面積3.9万平方キロに38ヶ所だと1,026平方キロつまり32km四方に1ヶ所ということになり、成田に到着する飛行機から眺める千葉県(5,156平方キロ)の実に154ヶ所のゴルフ場、33平方キロつまり5.8km四方に1ヶ所!ってほとんどゴルフ場以外に何があるの?に比べるとまだマシか。いずれにせよゴルフに興味ないものには地球の環境破壊以外の何ものでもなし。
▼まさに満を持して、と言うべき哉、信報にて林行止氏がThomas Friedmanについての追悼を語り始める。朝日新聞(経済面)のFriedman追悼記事が
チリの有力紙メルクリオ(電子版)は、「彼(フリードマン)の思想 の多くが米国よりチリで先に具体化され、成功を収めた」というエコノミストの言葉を紹介した。チリでは、アジェンデ社会主義政権をピノチェト氏が73年の クーデターで打倒。経済の混乱収拾に向け、フリードマン氏の下で学んだ経済学者たちを重用した。「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれた彼らは民営化と外資導入を 推進し、インフレ抑制と経済回復を果たした。ただ一方で、貧富格差が広まり、失業率も上昇したとされる。
などとアジェンデ社会主義政権で疲労した国家をピノチェト大統領が建て直し経済が持ち直した、とピノチェト体制の讃美で無節操に宣ってみせたことは十八日の日剰に綴ったが、林行止氏も昨日の専欄でこのフリードマンの教え子たちによる智利の経済改革を取上げ、経済改革成功というが、その陰で智利の失業率は1973年の9%がピノチェト軍事政権成立後の75年には19%に上昇、前年比の生産力は13%下落。77年のGDPが前年比8%上昇見せたことでフリードマンは当時ですら独裁者として悪名高かったピノチェトだが「ピノチェト政権で智利は奇跡的な経済復興遂げた」と宣ってみせたが82年には失業率が最高34.6%にまで達し生産力28%減(前年比)、83年のGDPが前年比19%減と低迷。70年に貧困層は国民の2割だったものがフリードマン改革の結果、90年には貧困層が国民の4割にまで増加。逆に70年に人口の上層2割が国の45%の財産占有していたものが89年には55%となり特権階級と資本家、それに対する貧困層の貧富の格差大きくなったことだけが結果として残る、と林行止氏はフリードマン経済学がいかに優れていようが実態として智利のピノチェト独裁に加担することで富む物を富ませただけで終わったこと厳しく糾弾。今日の続編では、フリードマンの強調した貨幣供給が経済発展とインフレに与える影響について述べる。貨幣供給の制限と高金利政策によるインフレ抑制が70年代から効力発揮したが90年代中頃になりその抑制力弱まったのはフリードマンの「貨幣が全てを決める」貨幣崇高主義が間違っていたのではなく東側共産主義の崩壊や社会主義国家の資本主義化により生産力(低い人件費など含め)が現われ西側国家がインフレなどのコントロール能力を失ったもの、と指摘。この連載、まだまだ続くそうで話はフリードマンが経済学と経済政策に与えた貢献について述べる、と言う。

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