富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-11-26

十一月廿六日(日)さすがに夜明け頃に目覚めもせずものの七時すぎに起きて明太子と納豆で朝餉。午前、月曜より溜まった新聞読む。昼前に出街。尖沙咀に渡り香港芸術館で「似與不似」遼寧省博物館蔵齊白石精品の美術展観る。本日が最終日。「似與不似」とは齊白石の文人画を見事に言い表したさすがに上手い名づけ。今朝読んだ廿三日の信報に、日本では長崎剣術美術館の西班牙絵画(須磨コレクション)くらいでしか注目されぬ伝奇的御仁、須磨彌吉郎(1892〜1970)が西班牙公使となる以前の1927年から37年にかけての足掛け11年、外交官として中国に駐在し齊白石と出会い海外に齊白石の文人画をば紹介するに到る話あり。彌吉郎が白石に出会う切掛けは1928年に北京の日本人倶楽部で挙行された齊白石の個展の由。そこで白石の「松堂朝日圖」を購った彌吉郎はその日の日記に「絵図中の朝日、家屋、松……それぞれは子供の描いた絵のようだが全体の雰囲気は何とも言えぬ感動を覚える」といった感想あり。彌吉郎は白石の作品を蒐集し始め1929年の正月には彌吉郎は白石の自宅を訪れるほど昵懇の間柄となる。須磨は1930年に広東領事となり33年に南京領事となるが37年渡米し40年から西班牙特命全権公使。欧州にてもピカソマティスにまで齊白石の名が知れ渡ったのは須磨彌吉郎の業績という。戦後、A級戦犯の一人に挙げられたが釈放され衆議院議員になった須磨は1954年に超党派の訪中団の一人として中国に渡り齊白石と再会。この年、白石九十四歳。彌吉郎に山水画「水連天」と篆刻家・姚華の「四君子圖」を贈った由。彌吉郎の白石のコレクションは1973年に当時の香港博物美術館にて齊白石展で公開されたという。余は文人画の良さが殆どわからぬが何事も勉強、そして何より齊白石の篆刻を一目みたいと今日の展覧千秋楽に駆けつけた次第。同芸術館にて巴里のポンピドーセンターのマスターピースコレクションがやってきて展覧会開催中。それも観る。モデルを描いた絵画ばかり彙める。警備員のほうが観衆より多い? 何よりもピカソのHarelquinの闘牛士の肖像が、その細かい線の一本一本までけして無駄がなく見事で見入る。中環に渡り擺花街の懇意にするカメラ屋に寄る。先日放出のカメラ関係の周辺アクセサリー届ける。代りにというわけじゃないが49mmのレンズフィルターいただく。二時間こってりと按摩。ジャパンカップディープインパクト見事な勝利をテレビ中継で見る。この馬が強いのはわかるが全盛のうちに引退というような態度がどうも癪に障りハーツクライOuija Boardに賭けて負ける。Quarry Bayの行列のできる粥店、金龍にて及第粥、痩肉皮蛋粥を購い帰宅。机まわりの雑事片づけ晩に粥を食す。
▼余はブルグミュラーを呪う。耳を澄ますとマンションの階上か、そして少し離れた棟か、何処からともなくブルグミュラーの「25の練習曲から第20番op.100-20」って、よーするにタランテラが聞こえてくる。あの早いテンポで延々と一時間も繰り返されると不愉快極まりなし。ブルグミュラーを呪う、というより正確には香港のナントカメソッドという英国系のピアノの級認定試験のある所為で、何年か土味噌から勉強した子どもらが中級の入るくらいの、いわば彼ら彼女らにしてみればかなり大切な級にこのタランテラがあるらしく、だが本当のピアノのテクニックなど関係なく、よーするにタランテラが弾ければいい、という安易な試験。で「ピアノ技能の普及」なんてお題目で結局は試験主催者側が儲かるばかり。
▼歩きながらとか地下鉄のなかで脇目も振らずに没頭して読まれている、そういう本の十中八九は間違いなく金庸武侠小説。今朝もマンションのエレベータに乗ってきた十二、三歳の子が読み耽る姿勢と、本の厚さで「あ、また金庸」と思ったが、やはり。余は金庸池波正太郎、藤澤周平も読めぬので武侠小説のどこがそんなに面白いのか全くわからぬ。
▼二十日のSCMP紙に政治面担当のGary Cheung氏の“The secret handover”という興味深い記事あり。香港の中国への返還というと1984年の中英合意がまず思いつくが更に遡れば1979年に香港総督MacLehose卿が香港総督として初めて中共訪れた際に?小平から香港返還に関して香港の繁栄を寧ろ中国に反映させる中共側の実務的な感触得たことで、これが英国側に香港返還を決意させた起点のように思われているが、実は今回公開された英国政府の機密文書によれば1969年にすでに英国側は新界の租借期限である1997年に中国側が断固として香港奪回をする決意堅きことを弁え平和裡に香港返還する決意をもっていた、と。ただし1969年は文革もまだ収拾されず香港も1967年の反英暴動からの社会的安定が立ち直っておらず、中国側との香港返還交渉は未だ時期尚早として80年代に入ってから、とされた、という。それが?小平の登場で一気に70年代末にそれが現実となる。でMacLehoseの70年代の香港は社会的インフラ整備が飛躍的に整備され新界開発など着手されたことで有名。それも実は、英国の香港統治にとって尤も面倒なのは香港での代議制の実施であり、MacLehose卿の言によれば「共産主義者が政治を掌握せば香港の末路であり、ナショナリスト(当時は反共主義者を指す)が勝てば共産党が介入する口実を与えることになる」もので、そういった代議制を実施せぬためには政庁の積極的な民生改善こそ重要。而も香港の中国への返還が決定すればカナダなど欧米系各国への移民が大挙して発生することも明らかで、英国は中国に「繁栄した香港」の返還をするためには香港市民が香港を捨てぬだけの安定が必要であり(その点での中英合意)、MacLehose卿の社会改革もそういった意図に則したもの。
▼満鉄について。地平線に沈む夕陽、特急アジア号……と満鉄は大陸のロマンとして語られる。満鉄設立から百年。日本での関連行事に比べ現地は静かで朝日の記者が当時、満鉄で機関士であった81歳の老人のを取材したものが興味深い(朝日11月26日、水平線「満鉄」古谷浩一)。「当初、日本人職員との関係はよく、中国人でも機関士として尊重される雰囲気があった」ものが戦争の激化とともに43年ごろから変わり日本人職員が中国人を殴るようになり差別が残酷だった、と云う。中国人職員が数名で集まり話しているだけで思想犯と疑われ、機関士として車両の暖房の故障を担当の日本人副機関士に注意したところ殴られ、上司にはその副機関士に謝罪しろ、と迫られる。よく「満鉄は中国東北地方のインフラ整備に大きな貢献をした」と言われるが、終戦の頃、或る日本人は「おまえら中国人は何もできない。30年後におれたちがまた戻ってきてやるよ」と言ったそうな。週刊新潮や諸君なら「そらみたことか満鉄マンの言った通り」と言うのだろうが、この言葉に結局は黄土建設だの五族共和だの嘘っぱちであったことの嘘だけは確か。

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