富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-09-05

九月五日(火)早晩にジムで筋力運動。帰宅して夕餉済ませ中井英夫戦中日記『彼方より』続き読む。短い期間ながら中井英夫が旧・水戸南飛行場(水戸市住吉町)にあつた航空通信学校に在籍と知る。読了。昭和廿年八月九日より抜粋せば
日本國民の感じる、大きい愛情、といふものは由來たいした意味をもたないし、又かゝる邪宗的主教國家といふものは、規模こそ異れ、世界各地の蠻地に點在してゐる。唯ひとつ惜しいのは、折角めざめてきた日本人自身の手でkの邪宗をくつがへせないことだ。
と戦局押し詰りし日に市ケ谷の陸軍参謀本部、それも彼の居室の階下には三笠宮が執務したといふ、にて反戦の日記を綴りたる英夫。終戦の日の彼の記述読みたいと願うが英夫この頃より悪性の腸チフスにて入院し医者に危篤と宣告されるまま昏睡状態にて終戦の日を通り過ぎたるもいかにも中井英夫らしいこと。この日記が戦後、何度か上梓されるなかで英夫は「まえがき」や「あとがき」のなかで貴重な証言残す(それが、この『彼方より』完全版には本多正一による「解題」として(詳細に渡り収録されたことが貴重)。まず月刊総合紙『公評』1971年3月号に初めて日記の抄録が掲載され、その「まえがき」で
戦後二十五年を経て何より驚かされるのは、私たちいわゆる戦中派の年代が、誰も彼も屠所の羊さながら、権力の命じるまま御両親様宛ての遺書をしたため、従容として死についた、と思われているらしいことで、僅か三十年も経たないのに、もうそんな歪んだ神話や英雄伝説が出来上がってはたまらない。何も私たちの中には少数の眼ざめた人間がいて、私もその一人だなぞというつもりはない。いいたいのは、たかが三十年ぐらいで、学生気質と二十歳そこそこのころは、無我夢中で本を読む傍ら、徹夜麻雀に熱中し、強すぎる性欲に辟易とし、知的な見栄っぱりをこととし、命令者の号令にそっぽを向くことをいさぎよしとしていた。陸士や海兵に喜びいさんで行く奴は、いくら勉強ができても馬鹿の一言で片づけられたし、まことを明らかにしておかなければならない。そしてそんくせ、兵隊はいやだという発言を誰ひとりなし得なかったことも確かなので、戦中派の戦後の沈黙は、かかってその恥nいあるといっていい。この次になにかあったら、そのときこそノオというつもりなのかも知れないが、あいにくその機会は生きているうちにはきそうもないのが実情だろう。
と述べる。この英夫にとっての事実が戦後どれだけ歪められ愛国の物語、神話が構築されたことか。続く翌4月に中央公論社の文芸誌『海』にも日記抄録が多少分量も増え掲載され、その「まえがき」でも
当時の学生のあらかたは、いま伝えられるようなものではなく、反戦の気風は以外なほど強かった。
と綴り「あとがき」で終戦の時の昏睡について
それにしても、眠り続けている間に、日本には何が起ったというのだろう。その日々があんなにも待ち望んだ輝かしい戦後だったとは、到底私には信じられなかった。それとも私は、この日記を書いた青年と同一人物ではなく、ただ彼の記憶を脳の一部に移植されただけなのかも知れない。いずれにしろ私は、また違う罠の中に捉えられた思いで、再びひとりの手記を書き始めるほかはなかった。いずれまた二十五年経ったならば……といういい方はもう許されないであろう。そして、むろん私のささやかなタイムカプセルが、それらの時の腐蝕に堪え得るともいまは思えない。
と結ぶ。英夫の記述は続く。戦争の最中、ただ大日本帝国陸軍なるものに対する「強烈な憎しみ」が英夫を支え
とはいえいまでも私は思う、あの当時に、たとえどれほど狂信的であろうと純粋無垢な愛国者がかりにいたというのなら、その人間こそ陸軍の横暴さを真先に憎み、徒らに眼を吊りあげて戦争完遂を叫ぶだけの職業軍人に心底から反感を抱いた筈ではないのか。世界の大勢についに一度も眼を向けず、あきらかな侵略戦争を聖戦といい変える欺瞞に渾身の増悪を覚えなかったのだろうか。たとえ一冊の社会科学の本に手引きされずとも己れの皮膚感覚で、みずからの肌の灼けただれで彼らは間違っていると感じなかったものか。遠い記憶を嘆いているのではない、戦争が始まったらそれに協力するのが当然という、すり変った議論がいまもって通用し、多くの戦中派世代がいつの間にか“きけ、わだつみの声”式の痛みで自分の痛みを代用させてしまっている、それが私には不思議でならないのだ。いかにも遺書という建て前にはどのようにも悲痛な文辞を残しただろう。しかしわれわれの本音はもう少しダメでだらしがなくて、あまり時の政府が期待するような人物像ではなかった筈である。この日記の昭和二十年七月にあるように、若者はおおむね口笛を吹きながら下駄をひきずって歩いていたのが実情であり、日ソ開戦の報にひとりが「これやでェ」と両手をあげてみせれば、前線で闘ってきた兵士たちでさえともに笑ったのだ。神州不滅もへったくれもあるけえとわめく手合いを非国民として許さぬ発想は、職業軍人とか翼賛壮年団にしかなかった、彼らこそあの時代の少数派であり、庶民の感覚はもうすこしまっとうで健康だったといえば、それもまた私の妄想として嗤われるだけだろうか。これも一例だが、水戸の航空通信学校にいた同期の一人は、天佑ヲ保有シとかいう『大東亜戦争開始二関スル勅語』を暗誦させられたあと上官がいなくなると、あゝあ、早く『大東亜戦争終結二関スル勅語』を読みてえなどと感想を洩らしていたが、学生兵の間ではそんな不謹慎な言辞も当たり前のことで、誰も咎めだてする者はなかった。ところが数年前その彼に再会してそれをいうと「オレはあの戦争でりっぱに死ぬつもりだったんだから、そんなことをいうわけはない」と、頑なに首をふって私をおどろかせた。二十五年の歳月はいつか建て前と本音をすり変え、彼は自分で時の指導者の望んだとおりの理想像を自分に課したらしいが、それよりもすべては私の幻聴としておいたほうが収まりはいいにきまっている。この本はそういう私の幻視と幻聴の記録であり、先に記したように憎しみだけがそれを支えた。(略)やみくもに戦争へ傾斜してゆく時代の風潮は、こういう私にとって格好の餌食だったが、さてようやく迎え得た日本の戦後が、ほとんどこの憎しみをぬきにして始まり、その上に栄えるのを私はまたひどく奇異な思いでみまもった。(1974年、潮出版社刊行『増補新装 彼方より』の巻末小記)
と綴る。この記述の最後に英夫は、戦中と戦後の知識人の転向ぶりを挙げ
日本人の天皇観はいまも昔もほとんど変わっていず、その上に確かな戦後が築かれてきたことを、いまは憎しみの代りに哀しむだけである。
と結ぶ。ここで英夫の言う「昔の天皇観」が、たんに戦前の、明治二十年代から構築された「近代の天皇観」にすぎないことを付記しておこう。
▼香港鼠楽園開業から十二日で丸一年。年間入場者数五百六十万人目標のところ五百万人に達したのみ。十月には一ヶ月遅れで五百六十万人達成と宣うが、この人数には入場料優遇だの関係者通しての無料招待だの含み、それがいったい何割を占めるかは当然の如く言及せず。悲惨極まれり。香港鼠楽園は初年赤字でも潤沢なる資金で運営問題なしと豪語するが融資銀行団の融資返済計画の見直し必至。鼠には震災予知の本能あり。安政の大地震、先の震災の如く将来閉園とならば鼠は逃げればよいがHK$230億の巨額公的資金拠出の香港政府ばかりが大損。政府の政策決定者など個人にて無限にせよ有限にせよ責任を負う必要もなくただただ我らが血税ドブに捨てドブネズミにくれてやったようなもの。
▼陶傑氏が蘋果日報の随筆に「小泉下台了」と秀逸なる一文寄せる。小泉三世の九月の首相退任は権力に固執することもなく引き際の見事さは中共首脳など見習うべき、として日本の成熟を讃める。陶傑氏であるから小泉三世がアジアの隣邦を見下すが、見下される方も見下される理由があるでしょう、と(これは陶傑氏一流の自卑であり、日本人が同調する必要はない)。で陶傑氏曰く、それぢゃ日本が「完全没有假大空的毛病」がないかと言えば安倍晋三を見れば「そうぢゃない」と。「美しい日本。」について、これは小泉以前の日本は美しくなかったのか。もし安倍センセイが香港人相手にアンケート調査せば香港人の愛する日本とは、日本の秩序と和の美徳、清潔好き、京都の古都の幽静淡雅、北海道の露天温泉の湯気と雪花、神戸牛に成長ホルモンなど薬剤投入されておらず、刺身が使用済みの生理用ナプキンで色付けされておらず(これは陶傑氏の好きな中国卑下、ここまでひどくないだろう)、温泉のお湯に小便や大便が混在しておらぬか心配がなく、銀座で買い物すればコピー商品はつかまされず、富士山の美しさ、小樽の運河、公害など化学汚染も解消され……そんな日本の姿は日本人が日本を愛しているから成り立っているもの、と。それを今さら美しい日本だの、愛国心だのと言うことの欺瞞を陶傑氏は指摘する。御意。日本で敢えて美しくない場所は、と陶傑氏、大陸からの暴力団が跋扈する新宿歌舞伎町だろう、が、歌舞伎町だって皿うどんが美味いし(コマ劇場の、ちょっと区役所寄りのうどん屋?)、日本にとって唯一足りないのは近隣の、中国との友好関係維持するような美しい姿勢でしょう、と。この「美しい日本。」につき知己のN氏が「日本はDiscover Japanから始めるべき。Realize Japanと言ってもいい」と。本当の日本の現実をわかる努力。人々の願い、歴史、地方の美、世界観。内輪だけでうっとりと横山大観の富士と日輪かなんか見つめ「美しい日本の憲法をつくるんだ、教育基本法をつくるんだ」と呪文を唱えているのが彼ら、と。まさに。いいねぇ、Discover Japanは。民主党に教えてあげようかしら。来年の参議院選挙のキャッチコピーに如何?、と。民主党内の旧社会党の労組出身議員とか(もう数人しかいないかもしれませんが)、このDiscover Japanなんて聞いたら、国鉄再興!とか思うかも。
▼中国で映画『頤和園』制作の監督・婁華(華は正しくは「火」扁に「華」)氏に対し政府当局は五年の映画製作禁止の措置。『頤和園』は89年の天安門事件を題材に而もポルノチックな色情的なる描写あるとして中国国内で審査批准されず上映禁止。それをカンヌ映画祭に出品し当局の怒り被る。婁華監督には2000年に女優・章子怡抜擢し1930年代の上海の政治風雲をば描いた『蘇州河』などの作品あり。『頤和園』じたいは天安門事件扱ったとえ政治的主題は浅く登場人物らの濡場含む恋愛物語もどう天安門事件に絡ませるか、ツメが甘いという風評あり。
田中真紀子女史、小泉三世をば「ドーンと上がってみんなが政治が変わると飛び出したら、5年たったら何だったの、の四尺花火」で安倍三世を「火がつくと思ったら、すぐ落ちてしまうことに国民が気づく」線香花火と評す。ドーンとあがった四尺花火にしては5年にわたり輝くは長すぎ、安倍三世にはどうか線香花火であってほしいと思いつつ消えたと思って火玉がいつまでも残るところが気になりゃせぬか。
▼『信報』に我が人類学の恩師・謝剣教授、信報が青年実業家の李澤楷先生に買収され継続することに祝福を、と。皮肉か、と思ったが本音。謝先生にしてみれば三十年前からの知己たる信報社主・林行止氏、すでに老齢に達しいつかは経営の一線から退くわけで経営継続することは喜ばしい、と。そう簡単に言っていいものか、と疑問の李嘉誠財閥の取込みなのだが。

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