富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

八月十八日(金)朝、久々に10kmほど走る。晩にA氏より招飲あり。A氏宅。山口瞳『江分利満氏の優雅なサヨナラ』拝借。安藤更生『銀座細見』読む。安藤更生は(1900〜1970)は美術評論家で『銀座細見』は昭和6年に発行されたものの中公文庫版(昭和52年)。銀座について、とくにカフェの記述など詳細に渡る。
銀座は元来小売の町である。そしてその各々の店は永い間の信用のもとに築かれていて、少数の客に対して特種な堅実な、エラボレエトされた商品を売っているのである。いわば銀座全体が一つの非常に高級なデパートだったのだ。それは高雅な趣味と、完美な精神とを持つ者でなければ見分けられないようなものばかりである。従来の顧客はそういう人々ばかりだった。デパートの客は気取っていても、佐野屋の足袋と福助足袋の区別はつかない。食堂の寿司も新富寿司も同じなのだ。彼らには誰にも知られていて定評のあるものならなんでもいいのだ。 とか
これまでの日本文化は、銀座文化は、これら西欧諸国の半強制的な模倣だったのである。すでに原型がその文化的能力を失いはじめている時に、その模写が追随しないわけはない。日本におけるフランス好み、銀座におけるフランス趣味は、今やそれが一片の過去への追懐の情に止り、やがてはかの江戸趣味に対するように低徊的なものになってしまうであろう。これに代るものは大資本と、スピードと映画のアメリカニズムだ。日本人の多くは、今やアメリカを通じてのみ世界を理解しようとしているのだ。
と昭和初期の卓見。今では日本一の商店街の銀座だが、昭和初期の当時もまだ銀座は若者の多い、ハイカラだがクセの強い一角で、当時は何といっても日本橋の大店街、そして商業地区としては神楽坂や本郷!のほうがずっと賑わっていた、というのも面白い。今の銀座は有楽町からの動線が主だが、新橋から八丁目に入るのが主で博品館(現在はオモチャ屋だが当時は勧工場)が銀座の入り口。銀ブラは銀座通りの西側を漫ろ歩くのが粋であった、とあり。文藝春秋芥川賞伊藤たかみ『八月の路上に捨てる』読む。現代の若者の……というが読んでも共感も反発もなし。

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