富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-08-08

八月八日(火)昨晩スーパー銭湯の露天風呂でかなりの客がテレビで21歳未満の蹴球対中戦観戦。通りすがりに「なんだよ、あれ」と苦笑聞こえる。中国チームの失態か、と見ずに察するが画面の再生は負傷した選手運ぶ担架が転覆して負傷した選手がグランドに横転の様。失態以外の何ものでもなし。「だから中国は」「これでオリンピックは大丈夫なのか」と何千万人の日本人が一瞬思い、何百万人が実際にそれを口にしたか。負傷した上にグランドに落ちた選手が日本側でなかったのが不幸中の幸い。当たり所が悪くて選手にもしものことなどあり靖国に合祀されたら更に問題は複雑。風呂から戻り、深更にふと高谷朝子著『宮中賢所物語』読み始め三時くらいに読了。久が原のT君に勧められた書籍。著者は宮中の賢所に五十七年勤め引退した内掌典。宮中とはいっても表向きの行事とは一切関係なく皇室の私的行事としての祭事をば一年通して行うのが仕事。終戦までは宮中祭祀祭政一致の国家行事で内掌典も官吏。現在は公務員に準ずる内廷職。どれくらい祭祀をば毎日続けているか、といえば終戦の八月十五日も昭和帝がお隠れあそばしました日も日々の御用続く。皇居の天皇皇后両陛下お住まいの宮殿は近代的な建築だが内掌典らの勤める宮中三殿始めとする御殿は明治二十二年に建てられたまま、だという。一瞬、ただ「古い」と思うが、我にとってはキーワードである、これも「明治廿年代」なり。どうも明治廿年代にすべての国家の骨格ができている、これも一例。明治廿年代に日本は近代国家としての国家構造を創建しているのだが、神道国家神道化もそうであるし、宮城への神道御殿建設など、実は近代化とは全く反対の「伝統」「のようなもの」が創建された時期。実は、伝統であるとか歴史であるとか、もともと存在しているのではなく、明治の御維新から余裕もないままに日本という「国家」誕生から始まり廿年を経て余裕ができたところで、日本でいえばまさに日本が近代化を始めた明治廿年代に伝統や歴史も「物語」が造られていること。賢所では肉食は禁忌。肉類を料理することは御火の穢れ。神代に素戔嗚尊スサノオノミコト)が生き馬の皮をば剥いでみせ天照大神困り果て天岩戸にお隠れあそばされたことに因む由。二本足の鶏、鴨などは例外。洋菓子もバター、生クリーム用いるが外で買い求めたものは御火が穢れぬので例外。肉も皇居のお堀外であれが食しても良し。これくらまでは「まだ」驚かぬが
賢所にクリスマスはござませんが、毎年十二月廿四日には、シャンペンとケーキ、大きな鶏肉の唐揚げなどをこしらえて、楽しませてもらいました。
と。Oh my Amaterasu! 大驚。宮中で神事司る内掌典が宮中でイエス=キリストの聖誕祭祝う事実。しかも日々の内掌典らの祭祀のなかで十二月廿三日は今上陛下の天長節、廿五日は大正帝の例祭(御命日)。その中日にクリスマスとは恐れ入るばかり。あまりの驚きに眠気も醒めて一気に読了。夜明けとともに目覚めてしまふ。母と一泊二日の小旅行。上野まで「すばる」七月号読む。石原慎太郎島田雅彦川上弘美、金石範、池澤夏樹高橋源一郎江國香織辻仁成小田実津島佑子……と名だたる作家が書いているのだが「ひとっつも面白くない!」のは何故かしら。花村萬月の連載「沖縄紀行」がちょっと読めて詩人で唯一好きな高橋睦郎の歌舞伎論を読んだ程度。中沢新一爆笑問題太田光が「宮沢賢治日本国憲法」と、実際には憲法論には至らずに賢治論で終わってしまうのだが、太田光から「石原莞爾とか田中智学の」と莞爾ならまだしも智学が出てくると、やはり、驚く。でも「お笑い」がマジに語るのはつまらない。マジなら誰でも語れる。お笑いに昇華して笑って掃いて捨ててこそ、の思考のはずなのだが。午前九時半には母とともに帝都営団地下鉄浅草駅。地下街の立ち食いでかけ蕎麦。東武鉄道の、スペーシアなんて洒落た列車(http://ja.wikipedia.org/wiki/スペーシア)になってはいるが、気分的には1960年に登場の1720系(http://ja.wikipedia.org/wiki/東武1720系電車)「特急けごん」「特急きぬ」がいい。イカした豪華ロマンスカーの時代。今もスペーシア100系は全席ともJRのG車並み。10時丁度発の鬼怒川行き「きぬ」に乗車。母は亡き父との新婚旅行以来の東武特急(日光、鬼怒川に行く機会いくらあっても新婚旅行のあとは自動車旅行が主流)。東京新聞とヘラトリ朝日を上野で購入し(地元駅では両紙とも入手能わず)読む。東京新聞、活字は大きすぎるがけっこう読ませる記事あり。記者の表情がよく見える。ヘラトリ紙、ふだんは読んでいても、久しぶりに日本で読むと生活のなかに英語感覚が数日抜けているだけで読みづらいから不思議。下今市駅で連絡列車に乗り換え正午前に東武日光に到着。街道筋の食堂すづきに湯葉入りパスタ食す。駅前の珈琲店で珈琲飲み午後、金谷ホテルの送迎バスに乗車。神橋のたもとで日光金谷ホテルに寄る。十七、十八年くらい前かZ嬢と宿泊の記憶過る。東照宮の脇を抜けいろは坂をバスは登る。途中、日光駅前でも見かけた、どこかの高校の陸上部の選手らがランニングシャツ姿で水すらもたずに爽快に走っていたが、いろは坂上り口手前でまた見かける。道のり12kmで標高差650mの中禅寺湖まで上るのか、其処が終点だったのか。中禅寺湖金谷ホテルに到着し投宿。台風が紀伊半島あたりに上陸の見込み、今日は関東も天気が荒れる、と予報あり。実際に、朝にはそれなりの雨に降られたが曇り空続きで中禅寺湖の標高1350mほどに上がると快晴。太陽がギラギラ。それでも冷房なくても平気は摂氏廿四度。中禅寺湖で携帯は「圏外」なのに部屋の電話ソケットにxDSLと表示ありフロントに問い合わせればADSLモデム貸してくれて無料で繋ぎっ放し。バルコニーに出ていたら日射病になりそうで夕方まで部屋のなかで寛ぎメールで諸事済ます。読書。日光駅前で購った清開という純米酒(今市の渡辺佐平商店)をぐびぐびと飲む。夕方、露天風呂に浴す。金谷ホテルでも露天風呂あり。但しロビーに浴衣、スリッパは厳禁。客室から建物端の階段を降り別棟の露天風呂に向う。
亡骸の蜻蛉流れて硫黄泉 なきがらのとんぼ、流れて、いおうせん  富
昏時、母と中禅寺湖畔まで出る。さすが中禅寺湖金谷ホテルは旧・日光観光ホテルだけあって湖畔のボートハウスからの眺めには遊覧船だのボート乗り場の雑景が入らず「これぞ中禅寺湖」という景観に向こう岸は群馬足尾の社山、黒檜山といった尾根を見渡ず。夕暮れ見惑うばかり。わずか十分に満たぬ、東海沖に接近の台風の所為か異常なほど見事な夕焼け、部屋のバルコニーより眺める。ホテルのダインにて母と二人の洋食。コンソメ、虹鱒のソテー、仔牛のフィレ肉のステーキ。虹鱒も牛肉も一人前を二人でシェアして、で充分。お酒は久々に母と二人で晩餐なら嗜好を変えて伊太利のFerrari Rose Metodo Classicoでロゼの発泡酒。アップルパイと金谷ホテルのいい意味で普通の珈琲に近いコクのあるエスプレッソ。再び露天風呂。独り占め。晩遅く妹も投宿。車もほとんど通らぬ「いろは坂」で鹿二匹が道路にまで現われ、他の小動物いくつか見た、と。夜半の寂しい山道に地元の獣らのお出迎え忝なし。
▼久が原のT君より。京都での七十がらみの、四条の大丸辺が生家といふ、生え抜きの中京町衆タクシーの運転手翁の話。秀逸。
戦後、昭和二十五、六年のことどすが、その頃は北山辺に堰があらしまへんでしたので、賀茂川の水も豊かで、四条大橋の辺で水深1.5メートルもありましたやろか。鯉やらゴリやら、ぎょうさん獲れましてん。朝早く行くと、石垣から鰻が顔出しとりますさかい、針で巧いこと釣りよって、三匹も揚がれば蒲焼でごちそうどした。子供ら皆、夏は白い褌で四条通り歩いてました。川で遊びますやろ。その頃は友禅流しとりましたさかい、川水に染料が流れてます。一週間も泳ぐと、白い褌が紫に染まりました。そんなことでも水は汚いことのうて、魚はぎょうさんおりました。そんなこんなで、夏は良い遊び場でしたけど、流されて死んだいう話は一つも聞いてません。最近は子供が川に出んようなりましたけど、かえって死ぬ人がありますな。
祇園祭も、その頃は松原や寺町の細い通りを山鉾が通りまして、上から粽を投げますやろ。見物が傘を逆さに開いて取りますのや。今は中身は空の粽どすけど、その頃はちゃんとしんこ餅が入ってまして、三本も食べると結構おなか一杯になっともんどす。
朝日新聞に、といえば朝日新聞、自宅で母が購読しているのだが(祖父が亡くなるなり母が祖父愛読の読売より朝日にして四旬か)知己の人が来宅のおり朝日見て「こんな思想的に傾いた新聞読んでるんですか?」と驚かれた、と。傾いているかもしれないが思想的に、ぢゃあるまひ。その朝日に大阪の私立幼稚園で園児に教育勅語読ませる、の記事あり。教育勅語に書かれた、孝行だの友愛、博愛だの道徳のことは、それぢたい真っ当としても、問題は、そんな程度のことをいちいち国が文言にすることの近代の怖さ。文藝春秋出身の半藤一利氏ですら、この幼稚園の勅語指導について、教育勅語は「軍人勅諭の延長線上にある」もので「いわば軍隊を永続するために、国民児童にも軍人勅諭の精神を植え込もうとした。目的はよき臣民、兵士の卵をつくる点にあり、主権在民の世に通用するとは言えない」と。そういう<近代国家の意図>がわからぬまま、精神修養に、などと考える思考力ゼロが教育に従事していると思うと怖い。

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