富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-07-31

七月卅一日(月)曇。夜明け前に目覚め日の出の頃に海岸を散歩。ホテルから海岸に出たところに草木で見事なゲートあり昨日はなかったもの、と思っておれば海岸を朝まで飲み明かしたらしき泥酔の若者歩いて参り「昨晩遅くここでウェディングパーティがあってね、花火がきれいだった」と呂律もまわらぬが愛嬌よく説明してくれて「二人の写真を撮ってもいいかい?」と写真一枚とり去りゆく。朝七時すぎのまだ静かなレストランで朝食済ませ広い中庭の木陰に昼まで憩い読書。昨晩少し読み残しの鳥居民『周恩来毛沢東』について。鳥居氏自身、本来この本は『周恩来』とすべきところ『と毛沢東』としなければならなかった、と言っていることぢたい中共での政治そのもの。実際にこの本を読んでも周恩来本人の姿はけして浮き彫りにされることもなく、俗な言い方であるが神秘のベールに包まれたまま。1975年、文革もようやく終息に向い急進派が抑えられ国防部長に葉剣英、総参謀長に?小平が就任し数十名の閣僚や政治委員が全て周恩来の配下で占められたことで、鳥井民は「毛は敗北したのだった」と言い切って、この本は終わる。1974年より翌年にかけ文藝春秋に連載の内容、と奥付で読後に知る。続いて村上陽一郎『やりなおし教養講座』読む。お気軽な内容に一気に読了。教養など嗤って掃いて捨てられそうな今の時代に敢えて村上陽一郎が「教養」語ること。「規矩」などという忘れ去られた言葉だが、人間が本来けして理性的でも崇高でもないのだから、むしろどこかで自分の規矩を作らないと危険、と村上先生。その危険をなんとか乗り越えるための一つの手だてが教養、であり、「理性と教養が邪魔をして」というが、まさに理性と教養がなければいつでも簡単に野蛮になれるのが人間なのだから、その欲望の限りない追求を邪魔してくれるのが教養、と。ただ、その言いたいところ、を除くと全編にわたりトリビアの泉的な「へぇ」の話で、巻末の一文など読むと、あたかもスープを音をたてずに飲む、のが教養のようにすら思える。教養とは、スープの音、でいえば、パーティの席で日本人、韓国人、中国人がどう違った音をたてるか、などを科学的、文化人類学的に分析してみせ「くすっ」という笑いを提供する、といったものだと思うのだが。村上先生は二十数年前にある一件あり直接お手紙でやりとりし叱咤受けたこともあり、今となっては氏の癇癪に触れた意味もわかるだけ余も老いた。昼にホテルから歩いて十分ほどの処にあるコットンの布地屋に行くZ嬢につき合い近くの麺屋で20バーツの河粉湯麺食す。ちょっと足りずホテルに帰る途中のバーガーキングにてハンバーガー食すが98バーツ。ファーストフードはどこでも高値。ホテルに戻り午後も中庭の木陰で読書。田中直毅『二〇〇五年体制の誕生、新しい日本が始まる』は先月だったか日経新聞の香港衛星版創刊10周年で田中直毅講演会あり、そこで配られたもの。2005年の郵政選挙自民党が大勝し小泉三世の「政治」が認められたことにより55年体制が毀れたことは認めよう。ただそれに次ぐ、この2005年体制が田中直毅が「どうやらわれわれは有権者満足の政治の開始に立ち会いつつある。人口減少社会という歴史的な転換期にあたって、どうやら日本社会は蘇りのきっかけを手にしたのだ。これを単なる僥倖に終わらせてはならない」というほど明るい未来の入り口に立っているかどうか。次が安倍である。ところで、ファイルの中にあったNew York Timesの6月28日の社説“Patriotism and the Press”より。
The United States will soon be marking the 5th anniversary of the war on terror. The country is in this for the long haul, and the fight has to be coupled with a commitment to individual liberties that define America's side in the battle. A half-century ago, the country endured a long period of amorphous, global vigilance against an enemy who was suspected of boring from within, and history suggests that under those conditions, it is easy to err on the side of security and secrecy. The free press has central place in the Constitution because it can provide information the public needs to make things right again. Even if it runs the risk of being labeled unpatriotic in the process.
この“The free press has central place in the Constitution because it can provide information the public needs to make things right again. Even if it runs the risk of being labeled unpatriotic in the process.”というフレーズがいいねぇ。報道の自由は、世論が再び正常に判断するに必要な情報を提供する上で、たとえその過程において非愛国的という烙印を押されようと、憲法の核心なり。つまり時の政府が偏向の可能性あり、その権力や時の盲従的な世論に「非愛国的」とされようと、という信念が“the risk of being labeled unpatriotic in the process”という言葉に活きている。それにしても、この「再び」が、米国らしさ。9-11で紐育攻撃されパニックに陥り報道も含めての祖国一致翼賛体制での対テロ対策。その「嘘」の部分が数年かけて認識され、そしてそれを反省材料として「再び」という言葉となる。勉強して育ってゆくのもいいが代償が大きすぎはしないか。夕方、雨降る。タイに来てまともに降る初めての雨。雨期であろうというのに。部屋に戻り村上陽一郎科学史からキリスト教をみる』(創文社、長崎純心レクチャーシリーズ)三分の一ほど読む。コペルニクスの地動説であるとかガリレオ裁判であるとか「宗教と科学の対立」の印象強くキリスト教が科学的真理の弊害といった誤解をば解きほぐす。当時の「近代」科学と現代科学の相違など興味深く読む。連日涼しい日が続き摂氏26、27度くらいだろうか、晩になれば部屋に流れ込む涼風も心地よく冷房などずっとつけず。幸いなことにホテルの客の大半が北欧からの客で「規矩」しっかりとしており騒がしさなど無縁。レジャー好きの米国人などと違い終日、ビーチサイドで延々と読書する態。但し炎天下、太陽光線の強さなど恐れもせずに真っ赤に肌を灼くに努めるは、さすが北欧の太陽の陽光に餓えたDNAのなせる業か、と感じ入る。晩に市街散歩してOrchidなるタイで外国人相手でありがちな名前のタイ料理屋(経営者はフランス人で西洋料理も供す)に食し三晩連続でジェラート食しホテルに戻る。『科学史からキリスト教をみる』を読み続ける。

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