富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-05-30

五月三十日(火)北角の波止場で数日前に見かけた浮浪老人の家財道具が、最初見かけた時はちょっと置いてあるだけか、と思ったが、今朝まで放置されたまま。ガードレールに鉄鎖で繋がっているでもなし、それでも置きっぱなしなのは、道路清掃員も誰も「ちょっと置いてある」と思ったからか。この老人にとって全財産がここに放置されているのだから老人は不幸に遭ったか収容されたか。あるいは全ての財すら擲って更なる日々に旅立ったのか。午後にZ嬢より電話あり。銅鑼湾歩いていて「巴士阿叔の、みたいにビデオ撮影できる携帯持ってなくて残念だったね」と。何かと思えば週末に西湾河のマンション・嘉亨湾(Grand Promenade)のプールサイドで水着姿披露していた金髪のデルモ嬢らが今日はオープンデッキのダブルデッカーバスで市街を水色のボンボンを振りかざしながら雨空に水着姿で市街をお練り。仕事とはいゑ難儀なり。諸事に忙殺され晩に帰宅。NHKのNW9にて米軍在日基地の問題につき「閣議決定」を「内閣が変わっても引き継がれる最も重い決定」と紹介。そんな……(嗤)。調べてみるとやはり
閣議の意思決定には閣議決定閣議了解の二つがある。内閣としての意思決定を閣議決定、本来は主務大臣の管轄事項だが、その重要性から閣議に付された案件に対する同意としての意思決定を閣議了解と区別するが、その効力に差があるわけではない。意思決定は閣僚の全員一致を原則とする。(ウィキペディア
とある。そもそも閣議が内閣法4条「閣議は、内閣総理大臣がこれを、主宰する。この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」と規定されたもの、で「会議の手続きについては定めがなく慣行によるもの」だとしたら、NHKの言う「内閣が変わっても引き継がれる最も重い決定」は何に根拠があるのか。法律や憲法すら軽視され内閣総理大臣が国家の最高法規たる憲法を「現状にあっていない」と考えるほど憲法すら遵守されぬ国家において、いや、そんな国家だからだろうか、閣議決定が重要か。だがそれほど閣議決定に重要な決定権があれば、必ず法的根拠がなければならない。が実際にないだろう。NHKの安易な粗忽解説。なので毎月多額の受信料払う海外の聴視者としてNHK
5月30日のニュースウォッチ9の報道のなかで、在日米軍基地に関する報道で、内閣の閣議決定について、閣議決定は「内閣が変わっても引き継がれる最も重い決定」と解説が入りました。この根拠をご提示願いたい。閣議決定閣議の意思決定の一つであるが、内閣法第4条に「閣議」について「閣議は、内閣総理大臣がこれを、主宰する。この場合において、内閣総理大臣は、内閣の重要政策に関する基本的な方針その他の案件を発議することができる」と規定されているのみ。あとは慣例だけ。でどこで「内閣が変わっても引き継がれる」と決められているのか。政権交替があって内閣の意志が変った場合など如何か。
とお尋ねする。実際には閣議決定閣議で「こうしますよ、内閣としては、いいですね?」の全会一致での意志疎通であって、例えば「イラク人道復興支援」という名の米軍イラク侵略後方援助活動についても基本計画について閣議決定は計画をちょこちょこ変更するに用いられる(04年12月、05年12月)。国会の、国家の最高議決機関とは異なる、内閣の内輪の決定。郵政民営化の基本方針が閣議決定されても国会で否決された場合、廃案となれば、それで終わり(実際には亡霊のように復活したが)。1995年8月15日の村山富市首相「戦後50年に当たっての首相談話」で言えば、日本が戦前、戦中に行った侵略行為や植民地支配について村山内閣として政府は公式に謝罪した談話を出しますよ、自社さ連立政権で、自民党もその決定でいいですね、ダメなら連立解散か内閣総辞職か、ですよ、と(自民党自民党で戦後50年でどうにか戦争の総括をしないといけない時期であるから自党でなく社会党という天敵との連立内閣で首相談話を上手く利用した)。小泉内閣教育基本法改正案を閣議決定しても、かりにポスト小泉内閣基本法改正を引き継がなくても何ら問題はないのだ。閣議決定とはそういう性格だろう。ところで同じNW9で、北朝鮮による拉致では日本人で拉致されたYさんの北朝鮮での夫と思われる男性の親族が日本訪れYさんが拉致されたと思われる海岸をYさんの両親とともに「視察」、と。「視察」とは実地の状況を見きわめること(広辞苑)であり出かけて実際に目で見て調べること(講談社類語辞典)。警視総監自身が現場を視察、広州の自動車製造工程を視察、であって、出向いて状況や現状の調査の結果、何らかの決定や結論を導くための行為。だから「おそらく、ここで拉致されたんですか」と感慨を覚えることは「視察」ではなかろう、「訪問」でよい。ところで政府の「再チャレンジ推進会議」。総理府での会合の映像で議長は安倍晋三官房長官。阿倍君にとって「失敗しても再挑戦できる社会」は自民党総裁選出馬前に縁起悪いはず。日刊ベリタに香港鼠楽園不振に地元遊園地の賑わい、について送稿。
カンヌ映画祭で金棕櫚奨(パルムドールなんて意味もわからないでフランス語のカナ書きに比べ、金の棕櫚という漢語の美しさ)にKen Loach監督の The Wind That Shakes The Barley が選ばれる。この受賞をいちばん喜んでいるのはローチ監督本人よか高松宮記念世界文化賞をローチ監督に「間違って」授けてしまった産経新聞であろう。ローチ監督がカンヌで選ばれれば産経新聞からの賞金を日本の労働運動にカンパしてしまった「左翼監督」の印象も薄れるか……。今年のカンヌは「ダ・ヴィンチのコード」で盛り上がるはずが、カンヌはカンヌの美学があり是枝監督の「誰も知らない」で未熟な若手俳優に賞は与えても「ダ・ヴィンチのコード」は無視するだけの良識?があるようで、カンヌで開催なのに(カンヌだから、か)閉会式のセレモニーで開幕式とヴァンサン=カッセルがフランス政府の移民政策への抗議をスピーチに盛り込むことなど、昨日亡くなった岡田真澄高島忠夫が司会する日本の映画祭では想像もできぬこと。それにしても、なぜ王家衛がカンヌの審査委員長なのかしら。これが不思議。巨匠か……。確かにこれでもう映画制作やめてもらっていいのだが。
蘋果日報の論説欄に蒋峰なる書き手の「辛辛學子」?竹難書という文章あり。「辛辛學子」は学生の苦学の意か、?竹難書は読めもせず。で文章読むと台湾でもはや死に体の阿扁総統だが、台湾の白沙湾という海岸での環境保護のボランティアが海難に遭遇したこと追悼するコメントで「台湾のボランティアの貢献は?竹難書である」と語ったことで台湾中で唖然、と。これは呂氏春秋の故事によれば「悪罪多くいくら竹筆を用いて書いても竹を使い果たしても(?は「尽くす」の意)書き尽くせぬ」の意味。明らかに阿扁の誤用だが台湾政府の教育部長(文部大臣)が?竹難書の意味は「いくら言葉を用いても語り尽くせない」の意味で悪罪多く云々の意味でないと議会で釈明したものだから総統ばかりか政府までかなり嘲笑の的。これに対して「辛辛學子」は中国の胡錦涛主席のエール大学での記念講演で「エール大学のキャンパスを訪れてみれば、此処に青春に目を輝かせた学生たちが数多く学び……」と言うべきところで「??學子」(多くの学生)を読み間違えて「辛辛学子」と言ってしまい(?はshen、辛はxin)これも「此処にさんざん苦労する学生たちが……」では演説が必要以上に現実的になろうが、この胡錦涛君のは単純な読み間違えで、阿扁の場合はちょっと恥ずかしい誤用。だが阿扁がさんざんこれを揶揄されるのに対して胡錦涛君の誤読はほとんど小話の話題にもならず、と。その扱いの差が言いたい放題と言論統制との差。

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