富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

fookpaktsuen2006-05-08

五月八日(月)諸事に忙殺され晩に到る。78歳になるPaul Badura-Skodaのピアノリサイタルも聴けず。いつも乗るミニバスに「残骸」あり。三年ほど前に九龍バスなどの車内放送真似てミニバスにも設置された、衛星から放送受信し番組流すハイテク機器。たかだかミニバスで、だ。狭い車内五月蝿くてしょうがない。唯一の救いは4つだかのスピーカーそれぞれにスイッチあり「オフ」にすれば少なくても自分の頭上は消音化。登場した頃はかなり物珍しさもありかなりの乗客も眺めていたが、何が衰退の原因になったか、といえば「いつも同じ番組、同じ宣伝」の続くことで、飽き飽きして消音する客少なからず。そのうち乗るなり順番に消音して歩く客もあり(我も含む)。運転手も最初のうちは営業指導受けたらしくこまめに始発の際などオンにしていたが、同じ内容に飽きるのは運転手こそ、でそのうち消音モード続くことになる。半年ほどして番組も宣伝もついにずっと同じものが流れ始め「はやくも失墜か」と期待していたら、スクリーンがオフというケースがかなり目立つようになり、いつしかモニタは消えたまま。おそらく、運営コストは広告収入でどうにか賄えても、初期投資が莫大で一部のミニバス路線で始まったサービスの拡大が図られず資金繰りに躓いてのサービス休止だろうか。いずれにせよ迷惑千萬に呆れていた客としては朗報。でふと気づけば天井に設置されていたモニタがこの姿(画像)。ちなみにモニタ前に置かれた「匣」に衛星からの電波受信のチューナーやアンプなど。この箱を一つ置くだけで運転手横の座席の貴重な一席が欠けたわけでミニバスにとっては数ドルでも運賃収入減ったのだから皆にとっていい迷惑。残骸積んでミニバスは走る。晩遅くふと聖書など読む。コリント人への前書(第3章18)に
誰も自ら欺くな。汝等のうち此の世にて自ら智(かしこ)しと思ふ者は、智くならんために愚なる者となれ。
と。愚かなるほどに自らを欺くな、か。ところで聖書の凄いところは完成形として言語に関係なく一句一句意味の完璧に同じところ。漢訳なら
誰也不要自欺。爾們中若有人在今世自以爲是有智慧的人該變爲一個愚妄的人爲成一個智慧的人。
語学学習に例えば対訳で読めばかなりの学習効果もあろう。
蘋果日報の連載随筆で陶傑氏が「佩服日本人的理由」という文章あり(佩服:「はいふく」は「心にとめて忘れぬ」意)。毒舌が売りの陶傑氏が日本映画から伝統重視、西洋文明文化の輸入の見事さ、将又「日本語の縦書き重視」まで讃める、讃める。どこまで讃めて、そして「落とす」のか、と察しながら讃め殺しか?と読み進むが落とさない。日本を讃めて反語的に中国の文化や社会への批判か、というと、それもせぬ。ただ蔡瀾先生のように日本語が読めたら……といつも新宿紀伊国屋で後悔する、で終わる。それほど陶傑氏が日本贔屓とは。この文章で印象的なることは、明治以来の日本の現代化は全て素晴らしい、民族の尊厳、品味、Common Senseまで全て They always made the right choice. と。ただ唯一の汚点が第二次世界大戦での侵略行為と陶傑氏。御意。本来であれば明治からの大陸政策をばすべてひっくるめて非難することも可。だが帝国列強の中国侵略とは一線画して、日本の昭和の大陸侵略は何がどう問題で、その戦後の反思がどう間違っているのか、が重要。つまり、歴史的な侵略の事実は事実として、戦後、それをどう日本が思想的に解決し善後を構えられるか、それさえできていれば最良、ということ。それを「侵略はなかった」だの過去の見直し、はたまた「歴史を作る」が如き呆れた行為にばかりご熱心では救われまい。
▼昨日のChampions Mileであるが今日のSCMP紙の競馬評論記事によれば10着に終わったArt Trader馬に騎乗のE. Saint-Martin騎手がレース後裁定で8開催日の出場停止処分。大きな記事の扱いに何事かと思えば900m付近でSaint-Martin騎手のimproper riding(日本語の競馬用語で何と言うか知らぬ)で大きくスリップし内枠にいたJoyful WinnerのShane Dye騎手に接触し走行妨害。これがなければ三着に終わったJoyful Winnerも「ればたら」で勝利の女神は余にむかって微笑んだかも。
▼土曜日に大潭山中のジョギングで見つけた泡々の卵。三月まで香港在住で現在、京都にお住まいの自然H氏に尋ねれば、写真から見るとこれはカエルの卵で、しかも泡状で地上にあるので日本で言えばモリアオガエルシュレーゲルアオガエルのいずれかに絞られるが香港にどんなカエルがいるか不確かながら綺麗な水のある所に繁殖するのがこれらのカエルなので、おそらくその仲間だろう、と。それにしてもガードレールの欄干という、そんなとこに産むのか。ジョギング中にそれを見つけるのも走りに集中しておらぬ証左。