富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

四月十三日(木)憂鬱なる曇天に湿気。木曜日恒例小泉メールマガジンにて小泉三世春の交通安全運動の宣伝がため都内の小学校訪れ交通安全教室で子供たちと一緒に「青信号を確認してから横断歩道をわたる練習」したそうな。これまで赤信号で横断していたのだろうか。「交通事故にあわないように気をつけましょう」と小泉三世宣うが彼のこの治世にて明らかなことは郵政民営化といい自民党の組織改革、構造改革といい「赤信号で横断歩道を渡って例え怪我をしても結果的に被害者にならなければいい」ということかも。フランスでは政府の労働政策につき大規模な反対世論に対して政府は初回雇用契約CPE)撤回。これを朝日は巴里の富永なる特派員が「水平線/地平線 楽しく危うい「街頭政治」」(2日外報面)。「ニュースがわからん!フランスの若者、何に怒って街頭デモ?」(6日第3社会面)と産経新聞の如き論調。それに対して都新聞が「仏デモが政府動かすワケ 街頭訴え共鳴社会」(東京新聞)と「まるで変節せぬ朝日」の如き論調で四月十三日の「筆洗」など、日本の現状をば
何かを変えようと声を張り上げるのが時の首相で、選挙期間中も街はいたって静か。メディア映えのする見かけの争点ばかりに関心が集まり、いつの間にか構造改革も進んで、気付いてみれば格差社会
と嘆く書き出しの名調子の文章も天声人語とは格段の差。できれば都新聞を香港でも購読したいところだが空輸で一カ月HK$1,000だか。四月二日社説「“自由”を問い直す」(こちら)など記念碑的ですらある。
権力者の思うままを許さないことが憲法の役割です。強い者と弱い者の共存を目指すのが真の自由社会です。小泉流の憲法観には“異議あり”です。「自由」について考えさせられることが続きます。まず最初に、中国などの反発を招いた小泉純一郎首相の靖国神社参拝とムハンマドの風刺画の報道を取り上げましょう。首相は「小泉純一郎も一人の人間だ。心の問題、精神の自由を侵してはならないことは憲法でも認められている」と言い、イスラム文化を見下した問題の風刺漫画を掲載したメディアの関係者は「表現の自由」を唱えます。
どちらも他人の心の内を理解しようとせず、自分の気持ちのままに振る舞う権利を主張する点が似ています。強者、優位にある者のごう慢さを感じます。不思議なのは小泉首相が日の丸、君が代の強制に何も言わないことです。入学式や卒業式で「日の丸掲揚に起立できない」「君が代を歌えない」という先生が処分され、「心の自由」が押しつぶされています。反戦の落書きをしたりビラを配ったりした人が逮捕されています。「こころ」を重視するのなら、これらのことに何らかの言及があってしかるべきでしょう。そこで「自由」について基本から考えます。一般の国民と同じように内閣総理大臣にも心の自由があり、自分の心に従って行動してもよい。これが首相の展開する論理です。しかし、国王の権力を法の力で制限しようとしたのが近代憲法の淵源です。憲法が保障しているのは「権力からの自由」であり、権力者の自由ではありません。それは政府や権力者を規制する原理です。権力者を縛る憲法を、首相という最高権力者にかかる制約をはねのけるために持ち出すのは矛盾です。
日の丸、君が代の強制に続いて、国民の内心を管理しようとする動きもあります。国民に「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支える責務」(自民党の新憲法草案)を押しつけ、教育基本法改正で子どもに愛国心を植え付けようとする人たちがいます。法規範で人間の「こころ」の在り方にまで踏み込み、特定の方向へ引っ張っていくのは、立憲主義の考え方とは正反対です。「およそ立憲の政において君主は人民の良心に干渉せず」−百年以上も前の政治家、井上毅がずばり言い切りました。小泉構造改革の柱、規制緩和や市場原理の基本である自由競争に関しても疑問が浮かびます。(以下略)
で本日。晩に銅鑼湾時代廣場(Times Square)の某京川滬料理屋にて宴会あり末席を汚す。京川滬である、それなのに晩六時から満席で宴会も二時間の時間限定、店外には数十名の待客あり。驚くばかり。宴会のうち八名ほどでバーYで二次会。畏友B氏と遭いカウンターで物語る。同行の数名をタクシーでお送りしてからバーSに戻り独りアマレットでリンスした氷でウオツカ二杯。
▼朝日のパリから富永なる記者の論調は「パリの街頭が盛りあがってきたころ、欧州最後の独裁国家ベラルーシで大統領選があった。首都の広場で、独裁者の再選に抗議した何百人mの学生が拘束された。デモさん、ストさんは本来こういう国のためにいる」となる。どうもフランスのデモは気に入らぬらしい。いくつかある不満の一つは「失職の心配のない公務員が、大衆を泣かせるストで勤労者代表のようにふるまう」こと。だがあたしがCNNだのBBCだののテレビニュースで見た画像では市民はゼネストに耐えていた感あり。武蔵野のD君(久々に登場)の指摘の通りだと思うが「そもそも大衆の支持なしにかくも大規模なストを実行することは不可能」なわけで「ほんとうに大衆が泣いているのであれば与党は微動だにせず法案も撤回されずストは収束してる」はず。どうもこの記者には「ストは大衆が泣くもの」であるとか「官公労は勤労者の代表とは見なされない」という思いこみなかろうか。D君曰く「公務員の労働条件が低下すれば連動して民間企業でも切り下げがすすむことがわかってるからフランスの労働者はみな官公労を支援する」もので「失職の心配がないからこそ官公労は勤労者を代表して戦える」「公務員は税金で養っているのだから、いざとなれば国民のためにゼネストで戦え」ということ。「俺のとこなみに公務員からも搾取しろ」は、さもしい。そういうことを「伝統的」なんて誇るとフランスは「世界標準」から取り残されるんだ、というのが富永記者あたりの主張かもしれぬが英国を除けばフランスほどでなくてもこうした思考は多かれ少なかれ欧州の社会の常識。D君の話では同じ時期にドイツで清掃労働者のストがあり収集されぬゴミが街角に山積み、だが、市民の声は「夏じゃなくてよかった。臭わないから」「ワールドカップまでには片づくといいけど」というくらい鷹揚なものだった、と。

富柏村サイト http://www.fookpaktsuen.com/