富柏村日剩

香港で2000年02月24日から毎日綴り始めた日記ブログ 現在は身在日本

三月十一日(土)朝寝貪るつもりが七時には起きてしまい机まわりの諸事片づけ。浴室の電気関係の修理、冷蔵庫の配達あり昼すぎまで在宅。午後少し今週残った仕事片づけ。九龍の風呂屋で按摩。ペニンスラホテルのバーにハイボール二杯。石原千秋『国語教科書の思想』新書なのでさっと読了。Y女史の帰国間近でZ嬢と三人で「尖沙咀の」Jimmy's Kitchenに晩餐。ドライマティーニ、白のハウスワイン一瓶、それに赤ワインをグラスに一杯。タクシーで銅鑼湾。バーSもY女史は今晩が最後か、と訪れる。ハイボール一杯。マッカランの時代物一杯賞味。Y女史のところにN氏より電話入りN氏宅でも送別会の最中だそうで、私らも連れられ其処に合流。睡魔に襲われ意識失いそうになり帰宅。
石原千秋『国語教科書の思想』ちくま新書。タイトルからすると右傾化する教科書をば批判する内容のようだが著者はそういう意図で作られている教科書を「そうう作られているものをそう作られていると批判しているだけ」では批評にならない、と明言。むしろ教科書をテクストとしてそこに隠された意図を読み取ることが大切。というわけで国語教科書の問題は、道徳のように、教材の内容を「正しい」こととして子どもたちに擦り込むもので、与えられた教材を「批評的に読む」ことは許されない。何気ないほのぼのとした話で
きいちゃんは、とても明るい女の子になりました。これが、本当のきいちゃんの姿だったのだと思います。
と終わる小学六年の国語の題材で、「暗い子ども」はいけないのだろうか、と著者は考える。暗い子どももいることを忘れてはいけない、のだが、学校では皆「明るい子ども」でいなくてはいけない。学校ではこうして「正しさ」が教えられてゆく。学校といえば、芸人アン=ルイスの出たアメリカンスクールが昔は軍隊の施設で、それが病院となり、学校になったそうな。確かにフーコーが聞いたら膝を叩いて喜びそうな話。道徳用副読本『心のノート』のレトリックも興味深い。小学五・六年生用に「権利と義務ってなんだろう?」という文章がある。
たとえば、やるべきことをやらずに自分の権利だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。あるいは、他人の権利は認めないのに、自分の権利を押し通そうとする人がいたら、あなたは、なんと言うだろうか。このとき、あなたが感じたこと、言おうといたことに「権利と義務」について考えるヒントがあるようだ。
これは「権利が確立してはじめてそれを護るために義務が生じるのであり、自由が保障されてはじめてその自由にたいする責任が生じる」(入江曜子)のだが石原千秋はこのレトリックの杜撰さを述べる。なぜ、こんな「厭な奴」を例に出して「権利」について考えなければならないおうだろうか。権利がダメなのではなく、こいつがダメはだけの話、という著者の指摘はまったくその通りであるし、この文章のあとに
たとえば、やるべきことをきちんとやったうえで自分の権利を主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。あるいは、他人の権利も認めたうえで、自分の権利も主張しようとする人がいたら、あなたは、なんと言うだろうか。このとき、あなたが感じたこと、言おうといたことに「権利と義務」について考えるヒントがあるようだ。
という文章が続いていたとしたら、「あなた」の答えは同じだろうか、と言う。さらに
たとえば、やるべきことをやらずに他人の義務だけを主張する人がいたとしたら、あなたはどう感じるだろうか。あるいは、自分の義務は認めないのに、他人の義務を押し通そうとする人がいたら、あなたは、なんと言うだろうか。このとき、あなたが感じたこと、言おうといたことに「権利と義務」について考えるヒントがあるようだ。
と書かないと公平ではない、と。御意。個人に義務だけを押しつける「わたしたち」を内面化した「一人一人」というレトリックがいかに危うい思想になり得るか、ということ。

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